「馬鹿なことを! あの男を森にとどめていれば、人質にでもなんでも使えたのに!」
アナヒェの言葉に、ルーガが噛み付く。
「お前なぁ! 俺は、レナルドに息抜きに森に遊びに来いとか、仕事が辛いなら俺が変身して代わってやるからちょっとサボっちまえよとか、元々はそういう話をしてたんだよ! あいつが村に帰りたいって言うなら止める理由はねぇんだ!」
「そういうことですわ、ハイエナさん。レナルドさんとルーガの友情を利用しようとした企みは、もうとっくに崩壊しているのです」
広場の騒がしさがさらに増す。驚きや懐疑の眼差しが次々にアナヒェに向けられた。非力な人間からの非難などどうということもない。そのはずなのに、ここ数ヶ月、レナルドとして慕われる居心地の良さに無意識に馴染んでいたアナヒェは、思ってもみなかった苦しさに襲われる。失望。落胆。果ては、蔑まれ嫌悪されるのではないかという、群れなして生きる動物にとって本能的な恐れ。ほとんど勝利宣言と言っていいアリシアの言葉に、アナヒェは逆上した。
「せっかくの計画を! 人間風情の娘が出しゃばるな!」
アナヒェが罵倒し、アリシアに向かって唸り声を上げる。その仕草を、レオがアリシアの前に出ることで牽制した。アリシアは怯まない。
「そうですわね、あなたはとても周到に準備をしていたわ。本物のレナルドさんを森の中の炭焼き小屋に追いやり、自分がレナルドさんに化け、数ヶ月かけて村の住人との信頼を築いた。ピオ村の代表としての仕事ぶりは優秀だったようね。
残念ですわ。あなたがピオ村を脅かす道を選ばなければ、わたくしが雇って、まとめて面倒みてさしあげましたのに」
レオが「このあたりが潮時ですよ」とアナヒェに助言する。ハイエナは眉間や鼻筋周りをギュッと寄せるように表情を強張らせ、憎々しげにライオンを凝視する。
「忌々しい。本当に忌々しい!
中央に拠点を置く貴族にとっては辺境地方など搾取先でしかないくせに、こういう時だけ口を出してくる! そういうことなら、こっちにだって意地がある。いずれ後悔するがいい!」
アナヒェはそう叫んで、全力で退却する。広場の出口へ向かって、ハイエナは駆けて行ってしまった。ただの苦しまぎれの捨て台詞には思えず、その内容が気になるアリシアだが、人間の自分が走って追っても徒労に終わってしまうだろう。
「お願い!」
アリシアが助力を求めた先は、小さき者達だ。妖精。そして幾羽もの小鳥の群れ。何かあった時のために待機してくれていた協力者達に追跡を依頼し、アリシアは人が多く集まっている広場で闘わずに済んだ幸運を思う。
「ありがとう、ルーガ、マンジュ卿」
アリシアが礼を言う。
「おかげで村人の誰かに怪我をさせることもありませんでした。ハイエナの彼はとても切れ者のようだから、分が悪いと見ればすぐに手を引くだろう、やぶれかぶれに誰かを傷付けることはないはず、と予想してはいたのですけれど、あなた方がいなければ非力なわたくしだけでは彼を引き下がらせることはできなかったはず」
アリシアの言葉に、レオは「いえ、大したことは何も」と首を振った。
「いやいや! よく言うよな! あんたがアリシアを守る位置であれだけ殺気立って睨み利かせてたから、俺とアナヒェはお互い手を出さずにいたってだけだぜ? あと少しで、仕込んだナイフの全部に出番が来るとこだった。……こないだは、タテガミ野郎だなんて言って悪かったよ。恩に着る」
ルーガの言う通り、レオの存在がなかったならきっと一戦交えていたはずだ。ルーガの物言いは粗野だが素直で、アナヒェがこの狼獣人を「単純頭」となじっていたのも頷ける。だが、全ては少々柄の悪い彼の、この率直で愚直な性格のおかげだ。だからこそ、妖精と小鳥が居所を探し出してくれた狼獣人のルーガを味方に引き入れることに、アリシアは成功したのだった。
レオが少し怪訝な顔をして、「雇用主の呼び方は考えたほうがいい」と口にする。
「それに関しては、わたくしも同意ですわ。他の者に示しがつきませんもの」
「へいへい」
アリシアも同調するのでルーガが面倒くさそうに返事をするが、その視線は広場の中央をチラチラと気にしている。きっと、彼が友人のレナルドを案じているからだろう。アリシアがルーガの内心を察して声をかける。
「先に、レナルドさんの所へどうぞ向かってさしあげて。心配でしょう? わたくしも追いかけますから」
冗談交じりの令嬢からの言葉にルーガは「分かった! さっさと来いよな、アリシア! あっ、じゃない、お嬢!」と言い残して走り去った。思わずアリシアは笑ってしまう。
「ふふ。単純頭などとさっき言われていたルーガですけれど、あの素直さは美徳ですわね」
「さぁ、わたくし達も参りましょう」と後方のレオを振り返りながら令嬢が言って、広場を歩き出す。事のなりゆきを見守っていた村人達は令嬢のために一人、また一人と場所を譲り、自然とアリシアの前に空間が生まれだす。そこに、店を見ようと広場に足を運んでいたらしいキャスの家族もちょうど居合わせていて、キャスが「アリシア様ーっ!」と嬉しそうに呼びかけた。それが誘い水になり、たちまち「ポーレット様!」「アリシア様!」という歓呼の声が上がり、令嬢の前方の空間は広場の中央へ至る道となって開けた。
笑顔で手を振るアリシアに、レオは領主としての求心の才を見る。
村人達は、広場での一部始終を目撃したのだから受け止めざるを得ないのだ。自分達の代表の姿に部外者が成り代わっていた、という驚きと、その部外者を領主の娘が無事に追い払った、という事実を。村の自治が終わるのではないかと危惧する要因だった領主の娘の存在評価を、少なからずアリシアは反転させた。