まだ夜の気配をかすかに残した早朝の空気の中、アリシアは彼女に懐いている妖精を伴って外を歩いていた。
「こちら側は、見える畑は全部小麦だそうよ」
『こむぎ!』
聞こえた言葉を妖精が繰り返す。種を撒き、芽が育ち始めた畑をニコニコと妖精は眺めているが、いつものようにアリシアの周囲を飛び回ってはいない。その、透明で繊細な翅を震わせることなく、アリシアの肩口に腰を下ろし、藤色がかったプラチナブロンドの髪を抱きしめるようにしがみついている。その、周囲を少し恐れるような仕草に、アリシアは少し胸が痛い。
慰めるように指先を近付けると、妖精は嬉しそうに頬ずりする。
昨日、ニナと一緒にキャスの家で改めて礼を伝えている最中に、この妖精は小鳥達と怯え切って帰ってきたのだ。キャスは自分の出身が貴族のロックフォード家である事実について両親から詳細な話を聞かされ、彼女自身も納得できたことで落ち着いた表情を見せていた。根が真面目な彼女だからこそ、一人になって思索を深めようとしたのだろう。
キャスは「いつかは、ルーク様にご挨拶できたらいいなと思っています。でも、私の両親がこの家のパパとママであることに何も変わりありません」と微笑んだ。アリシアは、心優しいキャスが傷付いているのではないかと心配していたからほっとする。いや、しっかり者のキャスがおくびにも出さないだけで、きっと彼女の内心は複雑なはずだ。アリシアは自分の記憶を引き寄せ、生みの母親が他界した後に後妻を迎えると聞き、世界が崩壊したようにさえ思えた自分の混乱を思い出す。
そんな中、窓から飛び込んで乱入してきた『ママ!』という震える第一声を、アリシアはしばらく忘れられないだろう。「どうしたの⁉」と尋ねると、小鳥達は口々にチチチと小刻みに鳴き、妖精が「食べられちゃったの! あいつに!」と目に涙をためてアリシアにしがみつく。キャスが「アリシア様、小鳥のお話はぜひフォグさんに通訳してもらいましょう」と提案し、アリシアとニナは広場に舞い戻った。
気のいいフォグは、小鳥達の話を聞いてオイオイと声を上げて嘆いた。アリシアもニナも、苦渋を表情ににじませる。
「分かっています。ええ、分かっていますとも。強い者に食べられてしまうのが自然の世界の食物連鎖です。それに未来は誰にも見通せない。動物も、
アリシアは、非力なもの達だけでの追跡を不用意に依頼した己の浅はかさを悔いた。犠牲を出してしまった事実に心を痛め、小鳥の仲間達に謝罪する。そしてフォグの力を借りながら、恐怖する小鳥達と妖精から彼らが耳にした言葉や光景を聞き取った。それは、アナヒェからの不遜な伝言や今後の予言めいた計画についてだ。もちろん、変身の様子や小鳥が囚われて食べられてしまった場面も漏らさずつぶさに聴取する。
アリシアは、話を聞きながら「アナヒェは女性にも化けるのね」とつぶやき、フォグが「あぁ、ハイエナはもともと男女の区別がつきにくい種族なんですよ」と答えた。過去にはハイエナが両性具有だという誤解もあったらしいが、メスが力を持つ群れを形成することが多く、身体的な外見特徴も男女で近いのだと、フォグが解説する。
「アナヒェ……」と名前をつぶやき、アリシアは妖精達が目撃した獣人の様子を想像する。長い金髪の、麗しい見た目をしたアナヒェ。まるでアリシアに当てつけるように、王都での成功を画策し、国の中枢に入り込む野望を語っていた。
ニナが心配そうに「あの、ケイル様をはじめ、王都の方々に知らせなくてよいのでしょうか?」と語り、アリシアも「わたくしも同じことを考えていたのですけれど……」と応じた。
「わたくしは、ケイル王子に身の潔白を疑われて婚約破棄となり、お咎めを逃れるために自主的に都の中央を離れた身です。そのわたくしが不審な人物について情報提供して注意を促したとして、聞く耳を持って頂けるか分かりません。アナヒェが変身魔法を使えるならば、どれほど外見的な特徴を知らせたとしても、かえって警戒体制に穴を開けてしまう可能性すらあります」
アリシアの言い分はもっともだ。それを聞いたニナが沈んだ顔をするのが気になって、「まぁ、わたくしを疑う一件があったことで、顔見知りでも油断するなと王城内の警備がより強化されている可能性は高いですわ。それによって、アナヒェが付け入る隙もなくなっていればいいのですけれど」と令嬢が語る。ニナが「そういう怪我の功名が上手くいっていればいいのですけど、それはそれで癪なんですよ、私としては……!」と歯嚙みするので、令嬢は苦笑した。
そうやって小鳥と妖精から事情を聞き終えた後も、昨晩、妖精はアリシアから片時も離れようとしなかった。そして、今もそれは同じことで、アリシアの肩口から降りようとせずにいるのだ。
事前に聞いていた作付けの内容を確かめるように、令嬢は村で管理している畑のそばを歩いてゆく。小麦畑、果樹園、花畑。アリシアは農作に関しててんで素人だ。レオから、魔法の副作用によって
「まずは自分の目で見てみなくてはと意気込んではみたものの、空振りだったかもしれませんわね」