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第18話 真の調和

第18話 真の調和〈1〉

 レオ・マンジュは、非常にやきもきしていた。自分の事務処理用に王都に借りている物件は、使用人を置いていない。貴族の立場を授けられているとはいえ独り身であるし、家を空けることも多いから、というのがその理由なのだが、今日ばかりは少しだけ自分の過去の選択を後悔する。秘書として雑務を引き受けてくれる者がいれば、もう少し効率よく仕事ができるだろうに。

 仕事をしつつ、レオは時計を気にする。できるだけ早く合流したい、とついつい考えてしまう。荒唐無稽な話だと自覚しながらも、昨夜のアリシアが事情を自分に打ち明けてくれたことが嬉しかった。

「私の足だと、予定より少し早いが……」

 人手があって困りはしないだろう、とレオは広場へ向かう準備をする。自然と歩調が早くなる。妙な落ち着かなさが、ずっと彼を苛んでいた。


(私の足では遅すぎる! 間に合わない!)

 アリシアは、アナヒェを探して一旦は離れた広場のステージへ近付こうと、人混みを分け入るように進んでいた。無力感が、アリシアの心の内を千々に裂くようだ。

(ああ! 私に、リデルのようなはねがあれば! リアムのような知恵があれば! エイダンのような武の心得があれば! ルークのような正義の心があれば! アルゴのような機転があれば! マンジュ卿のように風のごとくに走れたならば!)

 凶悪なイメージを纏った基素エーテルに、自分では追い付けそうもない。無理だ。そう、結論付けてしまいそうになった刹那のことだった。

 アリシアの頭蓋が震えたような感覚で、声が響いた。低くて、優しげで、どこか有無を言わさない迫力を伴った声。

 ──あの貸しは、これで帳消しだ。

 それは、アリシアの金属蝶を介した呼びかけに応え、脱皮の欠片を採集させてくれた、あの翼蛇の声だった。アリシアがそう気付いた瞬間、彼女の体はリデルと一緒に、まるで翼で羽ばたいたかのように宙に浮き上がり、風に乗り、やがてステージに降り立った。自分の周りを、いくつもの種類の基素エーテルが包んでくれているのがよく分かる。

(なんて不思議な感覚なの? まるで時間が止まったような……こんなにたくさんの種類の基素エーテルに包まれるなんて、生まれて初めてだわ)

 その時だった。ステージの上に、今のアリシアとは全く異質な手触りの基素エーテルが存在することを悟り、その黒っぽいイメージと嫌な気持ち悪さに令嬢は眉をひそめた。

(この基素エーテルは、一体……)

 アリシアが意識をそちらへ向けると、不快感が募る。そう思った直後、アリシアの中に他者の思考が流れ込んでいた。

 ──兄さえいなければ。

 ──自分はこんなにもこの国を憂いているのに。

(あれは……ケイルの……ケイルの手に……)

 ステージの上で、ケイルが携えている何かからアリシアは目が離せなくなる。

(あそこに、嫌な基素エーテルが収束しているような、変な感じがするわ。あれは……)

 ナイフだ!

 気付いた瞬間にアリシアはステージの床を足先で蹴って飛び出し、スローモーションで止まっているようだった時間が動き出した。

「お前さえ……お前さえ……! 少しだけでも何かが違っていれば!」

 ケイルの声は、苦悩に満ちていた。吐き出した言葉にも、さっきアリシアが感じたどす黒い基素エーテルがべったりと纏わりついているようだ。

 ケイルの握ったペーパーナイフは、弟王子が誰より慕い、憎み、疎んだ兄を狙ったが、その刃先がジェイドを貫くことはなかった。ジェイドの前に飛び出したアリシアの脇腹に、赤い染みが広がっている。兄王子をかばって、令嬢の華奢な体が刺されていた。『ママ!』という泣きそうなリデルの声が空気を震わせる。

 ギャラリーからの悲鳴。「刺されたぞ!」と叫ぶ目撃者。エイダンが駆け寄り、刺さったペーパーナイフを握ったままのケイルの手を凶器から外させようとする。だがケイルは「邪魔をするな!」と拒み、その勢いのままにナイフを引き抜いた。

 痛みのせいで、本人の意志とは関係なくアリシアの唇から「ぐうぅ……ッ」と獣が唸るような声が漏れる。

 熱い。熱いのに、寒い。不思議だ。興奮状態で。なのに、頭は変に冷静だ。自分の足が濡れていく感覚。

(あ)

 アリシアは、 ケイルがペーパーナイフを彼自身の首に向けるのを目撃する。

(だめ)

 エイダンを始めとする近衛兵が、ケイルの腕を押さえにかかる。アリシアの手がケイルの首元へ伸びる。他人事のように、自分の手の甲へ刺さっていくペーパーナイフの刃先をアリシアは眺めていた。

「本当のあなたは、そんなことを、する人じゃないわ……!」

 その時初めて、ケイルとアリシアの視線が重なった。アリシアの纏っていた多くの種類の基素エーテルがケイルを包み込む。白く強い光を帯び、わずかな時間の後にそれは消え失せた。それと同時に、あの禍々しい基素エーテルの嫌な雰囲気も霧散したようだった。

「アリシア様!」

 それは、レオの大音声おんじょうだった。アリシアの目の前で、ケイル王子の体が大きくかしいで吹っ飛ぶ。レオの拳は爪を器用にしまってはいたが、それでもなかなかのパワーだ。だがおかげでアリシアの手の甲が深々と刺し貫かれることはなく、ケイルの体は近衛兵達が受け止めた。ペーパーナイフが、音を立てて床に落ちる。うまく立っていられずバランスを崩すアリシアの体を、レオが支えて抱き起こす。

「無茶をなさらないでくださいと! あれほど!」

「マンジュ卿……」

 アリシアは一息に気が緩んだようで、ふう、と強張った体から力を抜きながら、「ふかふかだぁ……。あたたかいですわね」と微笑む。そのまぶたはゆっくりと閉じてゆき、アリシアは自分の意識が遠のくのを感じていたのだった。

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