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第18話 真の調和〈5〉

 アリシアはそう言って、あれは動物としての本能なのか撫でられるレオがまんざらでもない表情をしていたことも思い出して、思わず叫び声を上げてその場でぐるぐると歩き回ってしまいそうになった。

「おっ、落ち着かなくては……っ」

 頬を赤くして、アリシアは両の手のひらを顔の輪郭に添える。自分は、好きなのだ。あの、大きな体に似合わない柔和で優しい心持ちの獣人を。気持ちを沈めようと深呼吸をしてみて、わずかな時間の間に自分がめちゃくちゃに思考を巡らせたことを令嬢は実感した。

 ──大丈夫ですか? 急なことで驚かせてしまいすみません。

   ではアリシア嬢、あちらの世界でも、どうぞお元気で──。

「まッ、待って! 待ってください!」

 アリシアは慌てて、今にも向こうの世界へ自分を送り返してしまいそうな女神にストップをかける。

「あの、まだ心の準備ができていませんの! それに、もしもわたくしが元の世界へ帰ってしまったら、この体はどうなってしまうのでしょうか⁉」

 照れ隠しのように気になっていた疑問をアリシアがぶつける。このライゼリアから令嬢の存在が消えてしまうのではないかと不穏で嫌な想像が彼女の脳裏をよぎったが、ライザからの返答は違っていた。

 ──空になった器には、生まれ変わったアリシアの魂が収まるでしょう。

「えっ⁉ そんなことが可能になるんですか⁉」

 アリシアと優子という器や人格が混ざりあって、今や令嬢の人格の軸足がどこにあるのか、彼女自身にさえ判然としなくなっている。それでも、アリシア・ポーレットが消滅してしまうわけではないことに、女神と対話する彼女は安堵した。

 ──ええ。正確には、もう実現しているのですがね。

   ほら、このように。

 ライザがそう言い終えるや、アリシアの前に見知った存在が唐突に現れた。

『ママ! 心配しましたのよ!』

 薄い翅を震わせて、アリシアの胸に飛び込んできた小さな妖精。アリシアは目をまるくして、「リデル!」と名前を呼びながらわずかな質量を大事そうに受け止める。

 ──アリシア。あなたと波長のよく合うリデルについて不思議に思ったことがあるのではないですか?

   この妖精こそが、邪に染まり切ったアリシア・ポーレットの魂が断罪されたのちに、新たに生まれ落ちた姿なのです。

「……えっ⁉ リデルが⁉ リデルがアリシアの生まれ変わりなの⁉」

『えへへ。よく分からないけど、そうみたいですわ!』

 ややいい加減でポジティブなリデルの肯定に、思わずアリシアは吹き出してしまう。振り返ってみれば、リデルはずっとそうだった。この小さな妖精は、天真爛漫で、素直で、裏表のまるでない性格で、いつだってアリシアの心を明るくしてくれるのだ。

「ふふ、可愛らしいわね。本当に」

 愛しさがあふれて、それと同時にとてつもなく切ない気持ちになってしまう。何だか涙が出そうだ、とアリシアは思った。

「……リデル。もしもあなたがアリシアの生まれ変わりなら、この体はあなたに返すべきですわね」

 アリシアは、この世界での自分がどんな人物かを改めて思う。藤色がかった美しいプラチナブロンド。色の白い肌。桜貝を乗せたような愛らしい爪の先。悪役令嬢と呼ばれるにふさわしい、鋭い眼光と尊大な態度。よく通る豊かな声量。自分なりの正義を曲げない意志の強さ。

 ゲームの中では当て馬的存在のモブキャラであるアリシア・ポーレットというキャラクターに、今やこんなに親しみを抱いている。彼女がこの世界でやり直せるならそれが一番だ、と思えた。

 ──……少し表情が変わりましたね。

   この世界を発とうという意志の表れでしょうか?

 女神ライザの言葉に令嬢が「ええ」と頷く。そして、すぐそばのリデルに囁いた。

「ありがとう、リデル。短い期間だったけれど、一緒にいられてとても楽しかったわ」

 「さようなら。元気でいてね」というアリシアからの別れの挨拶を最後まで聞かずに、小さな叫びが空間を揺らす。

『いや! いやですわ、さよならなんて!』

 精一杯の声を張り上げて、リデルが抵抗する。

『いや! ママがいなくちゃ……! そばにいてほしいの、ママに!!』

「リデル……」

 この懇願はリデルの心からの必死の訴えだと、アリシアには即座に分かった。分かってしまった。だって。

「……そうね。そうよね。

 あなたは、確かにわたくしだわ……!」

 涙が令嬢の頬を伝ってゆき、その雫が過去の感情を鮮烈に蘇らせる。

(……お母様……)

 アリシアは、自分が母親を亡くした幼い頃の悲しみを思い出していた。もう聞けない声。静かで心地よい部屋。遠くなってしまった温かさと匂い。

 十七歳の誕生日を迎えてからまだ日の浅いアリシアは、これまでの人生の中で自分の抱えた喪失ばかりずっと考えていた。でも、今は違う。今のアリシアには、自分のことよりも優先したいと思える庇護すべき愛しい存在がいるのだ。

(ああ、お母様。この世を去る間際のお母様も、こんな気持ちでいらしたのかしら)

 不思議だ、とアリシアは思った。リデルがいてくれることで自分の中に今まで無かった視点が生まれて、立っている場所は同じなのに違う景色を眺めているかのようだ。

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