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最終話 冬立つ終幕

最終話 冬立つ終幕〈1〉

「アリシア様っ」

 再度、目覚めて間もない令嬢は名を呼ばれた。白刺繡の大判ハンカチを顔周りに結んだままのアリシアを呼ぶのは、獣人セリアンの一代貴族、レオ・マンジュだ。その声の響きには、覚醒に対する喜びと、アリシアの負った傷への懸念がありありと表れていた。仰向けになったアリシアの上半身を抱き起こすような姿勢でレオは跪き、止血のためだろう、彼の胸元からほどいたタイを幾重かに畳んで令嬢の脇腹を押さえ、その顔を見下ろしている。アリシアの服はぐっしょりと血で濡れていて、平服のドレスの表面で吸いきれなかった鮮血が足元にも零れ、血だまりとなっていた。生臭い匂いが漂っている。自分がレオを好きなのだとさっき自覚したばかりのアリシアは、目の前の金色の獣の瞳が心配そうに揺れているのをひしひしと感じて、強烈な気恥ずかしさと、えも言われぬ切なさを味わった。

(マ、マンジュ卿……っ)

 アリシアはレオからの声に答えたつもりだったがすんなり声が出なかった。代わりに幾度かまばたきを繰り返す。目を開けてすぐのアリシアはやや朦朧としていたが、次第に周囲の光景に対する焦点も合ってきた。ここは、ロアラ王都の広場にあるステージだ。

(品評会の功労者表彰のステージ……そうだわ、壇上のジェイドとケイルにわたくしは危機を知らせようとして、そして群衆の中にアナヒェの姿を見つけて……)

 アリシアは、翼蛇が力を貸してくれて複数の基素エーテルが自分を取り巻く感覚とともにステージに降り立ったことや、ジェイドを庇ってケイルに刺されたことを順を追ってぼんやりと思い返す。不思議と、意識を失う前に味わった焼けつくような痛みはない。

 その回想の裏で、品評会の運営スタッフか近衛兵あたりの誰かが「目を覚ましたぞ!」「医者はまだか!」と声を飛ばしているのを、どこか遠い場所での出来事のようにアリシアは聞いていた。ジェイドとケイルの姿はなく、安全上の対策なのかすでにステージを降りているらしい。いや、いたずらに市民を傷付けたとあっては弟王子とて兄の指示で一旦は近衛兵に取り押さえられたのかもしれない。アナヒェは一体どこにいるのだろう?

「ママ!」

「えっ⁉」

 突如、アリシアの傍らから現れてママと呼びかけたのは、まるでアリシアがそのまま縮んだかのような風貌の五、六歳に見える少女で、驚きの声を漏らしたのはレオだった。

「き、君は……⁉」

 あたかもずっとそこにいたかのようにアリシアのそばから飛び出してきた少女に、レオは思わず問いかける。少女はにっこり微笑んで、「ふふ、わたくしよ! リデル!」と叫んだ。

 レオが「リデル⁉」と混乱する。その反応は当然だ。そのやり取りが何だか笑いを誘って、アリシアは微笑みながら「リデル……」とつぶやき、その手を少女に伸ばした。

「ママ! もう大丈夫よ!」

 リデルは待ちかねたように、ぎゅっとアリシアの体にしがみつく。レオが慌てて「今は安静に……!」と力を込めすぎないように少女を引き剥がそうとして、不意に違和感を覚えたらしく彼自身の手元を見た。

「こ、これは……⁉」

 レオの驚愕の声を聞きながら、アリシアも我が目を疑っていた。ついさっきまで、しとどに赤く濡れていたドレスから一滴の血染みもなくなっているのだ。

 状況を飲み込めず、ぽかんとするアリシアとレオに向かって、リデルが「女神様がね。愛を為した結果ですよ、って」と伝言を口にする。

「ママ、ずっと一緒よ。死んじゃいや」

 改めて、ハグとともにアリシアにくっつくリデル。さっきの女神との邂逅は夢ではなかったのだとアリシアはその内容を反芻し、彼女は涙腺がじんと温かく刺激されるのを自覚した。まだ肌を触って直接確かめたわけではないが、痛みも血痕もない。

(ケイルに刺された傷……、消えてしまったということよね?)

 女神ライザは、一体どれほど自分に奇跡を施してくれるのだろうか、と与えられた生に感謝があふれてくる。アリシアはレオの腕の中で身を起こし、その細腕で少女を強く抱きしめた。

「もちろんよ、リデル。あなたを置いて逝くものですか……!」

 小さな体。高い体温。細い髪。柔らかな手のひら。

 アリシアは、愛しくてたまらないリデルに頬ずりする。

「……あの、お二人とも……」

 アリシアとリデルに、おずおずとレオが声をかけた。

「非常に無粋であるとは思うのですが、場所を移したほうが落ち着いて頂けるかもしれません……!」

 そう言われて初めて、アリシアは自分達がステージ上にいて、まるで舞台上のドラマを見守るように観衆に見つめられていることを意識した。レオが「このまま、風の基素エーテルを使う魔法でお二人をお連れしてよろしいですか? 戻れるならアレチ座の公演会場横の販売ブースへ。もしも騒ぎになってしまいそうなら、私の事務所まで。必要であれば、何か目くらましを考えます」と小声でアイデアを共有する。話を聞きながらアリシアはリデルとくっついていた体を離して、自分達の状況を確認した。そして、ステージ前や周囲に目を配りながら段取りを考えているレオの真剣な横顔に、思わずどきりとしてしまう。そして、すでに自分のそばに、レオが自然から借り受けた風の基素エーテルが渦を巻き始めているのを感じ取った。

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