「今、ポーレット嬢は混乱のさなかにおられます。どうか、少し静養の時間を……」
そう告げながら、詭弁だ、とレオは心中で歯噛みしていた。
(欺瞞だ。情けの無い。どう考えても喜ばしい縁談に水を差す言動だ)
それでも、何か言わずにはいられなかった。あの夜──アリシアの人格が他の世界からの来訪者であるという秘密を共有した夜を境に、より一層彼女を意識してしまっている自覚がレオにはある。アリシアは何と答えるのだろうかと、レオの傍らからリデルがちらりと様子を伺っていた。
ジェイドが「そうだな。急いたつもりはないのだがすまない」と、アリシアの返答よりも先に会釈する。
ステージ上で交わされる会話はそこまで大きな声で張り上げているわけではない。だから観衆達が事の流れの仔細を全て理解して見守っているわけではなかったが、ジェイド王子、一代貴族でワント出身の獣人であるマンジュ卿、そして頭をハンカチで覆って隠しているどこかの家の令嬢が何かを話し合っているのは明白だ。それがまた憶測を呼び、「あの子は誰?」「刺されて血まみれだったよな⁉ 女神のご加護か⁉」「ケイル王子はどうしたんだ!」とざわめきが広がりつつあった。
「……マンジュ卿」
アリシアの囁きは端的でささやかだ。
「あらかじめ注目されておくほうが、目くらましのためには有用ですわよね?」
それが脱出のための作戦会議だと察して、レオは簡潔に小声で打ち合わせる。アリシアはレオの話に頷いた。
「では、わたくしの混成魔法を」
令嬢の申し出に、レオはアイコンタクトで諾の意を伝える。
アリシアは素早く広場に目を走らせた。間もなくロアラは短い冬を迎えるが、この広場の街路樹の葉も赤や黄色に色付いている。自分と相性の良い木の
数秒が経過して、令嬢はまだ若干のだるさが残る体であるにも関わらず、ぴんと背筋を伸ばしてステージに自分の足で立っていた。
「ジェイド様。頭を覆ったままで失礼いたしました。
あの、わたくしも、家の者の意見を仰いだわけではなくわたくし個人の意向なのですけれど──」
アリシアはそう告げるやいなや、白刺繡のハンカチの結び目をほどいた。王子の目の前で大判の布が風を孕み、豊かなプラチナブロンドが艶やかに揺れる。ロアラ王都の民ならたいてい見覚えがあるであろう令嬢の顔が明らかとなり、群衆が「あれって……!」「あくどいって噂のご令嬢じゃないか⁉」とざわめいた。
「ジェイド様からの求婚のお申し出、大変栄誉なことではありますけれど!
わたくし、お断り致します!」
朗々と通るアリシアの声。表情にはどこか茶目っ気があるのに、響く声は不遜で冷たく、アリシアの態度を民衆に誤解させるにはおあつらえ向きだった。
予想通り「求婚って⁉」「一介の貴族の娘が、立場も弁えず偉そうに!」と反発の声が上がり、人々の注目が舞台上に集まる。
「ポーレット嬢」と呼びかけようとしたジェイド王子に向かって、アリシアが先に切り出した。
「でも、わたくしはずっと推しております。ジェイド王子を。国も、民も、弟も、全てを愛してくださるあなたを、これからもずっと」
一部の言葉の意味を掴み切れなかったジェイドだが、そこには確かに自らに向けられた親愛の情があると感じ取る。彼の視界は、その言葉を聞き終えるやいなや真っ暗になった。いや、違う。羽音がする。カラスだ。無数のカラスが壇上やステージ前の客達のそばに群がったのだ。
「わっ」
ジェイドは、思わず顔周りを守るように反射的に前腕を持ち上げた。周囲を払うように手を動かし、すぐに目を開けたつもりだったが、ともに壇上にいたはずのアリシア達はすでに姿を消した後だった。
「ああ、いやだ! もう本当に信じられないわ。ケイル様との婚約が破棄された今、稀代のご縁だったというのに!」
なじるのは、アリシアの継母であるカミラだ。アリシアは知ったこっちゃないと言わんばかりに澄まし顔で、「わたくしに暴言を吐こうが覆りませんわ。ジェイド王子からの求婚はすでにお断りしたのです」と答える。カミラは、まだ諦めきれていない様子だ。
「それはステージでの口約束の話でしょう⁉ 侍従の方がわざわざお持ちになった書面にも、頑として首を縦に振らず……!」
アリシアは思う。そこまで思い通りにしたいのならば、アリシアの意見など気にせずに話を進めればよいのだ。でも、カミラはそうしない。アリシアが選んだ結果でなければ結局また勝手に破談にするだろうし、一旦受け入れた形になったものをこちらから覆すほうが余計に不利だと分かっているからだ。
(いけ好かない継母だけど、一応合理的に筋は通すのよね……)
多くの経験を積んで、アリシアがカミラを見る目も少し変わってきている。
ここは、王都のあるポーレット邸のアリシアの部屋だ。あの騒ぎの後、体が本調子を取り戻すまでの長くて数週間だけと思って、アリシアは実家に滞在している。王都はどうも息苦しく。別にアリシアが誰かから直接皮肉を言われたり嫌がらせをされたりするようなことはないのだが、多少不便があっても噂や色眼鏡で見られる中央よりもピオ村のほうがきっと心安らぐだろうという確信があった。