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第68話 手を重ねて

 ピアノの音色が静かに流れる中、ふとアルが唐突に手を伸ばした。その手が桃花の手に触れた瞬間、桃花は驚いて目を見開いた。暖かく柔らかいアルの手は、まるで桃花の手を確かめるようにそっと包み込んでいた。


「……アル?」


 桃花が思わず名前を呼ぶと、アルは少しだけ眉を下げたような表情を浮かべ、微かに唇を動かした。


「……すみません。こんなことをするべきではない、とはわかっているんですが」


 声はかすかで、今にも消えてしまいそうだった。その言葉の後、アルはすぐに手を離すのかと思いきや、かえって軽く握り直してしまう。

 桃花の心臓は早鐘を打ち始めた。アルの手が触れるたびに、鼓動がさらに強くなるのが自分でもわかった。


「えっと……どうしたんですか?」


 桃花は戸惑いながらも問いかけたが、アルは返事をしない。ただ、その瞳を一瞬だけ桃花に向けると、すぐに視線を逸らした。

 その様子は、普段の余裕ある彼とはまるで別人だった。冷静で、どんな場面でも自信を失わないアルが、こんなにも動揺している姿を目にしたのは初めてだった。


「……僕は……」


 アルが口を開きかけるが、そこでまた言葉を飲み込む。握った手をどうしていいかわからないのか、指先がわずかに震えているのが桃花には伝わった。

 桃花は何か言葉をかけようとしたが、何を言えばいいのかわからない。その代わり、アルの手の中にある自分の手がじんわりと熱を帯びていくのを感じていた。

 やがて、アルが静かに息を吐き、意を決したように再び口を開いた。


「……京志郎さんのことが……少し気になってしまって」


 彼の言葉は、不意打ちのようだった。唐突に投げかけられた名前に、桃花は思わず息を呑む。


「京志郎さんのこと……ですか?」


 ようやく言葉を絞り出すと、アルは小さく頷いた。しかし、目線はまだ逸らしたままで、どこか不安げな表情を浮かべている。


「……僕には、どうしてもわからないんです。あなたと京志郎さんの関係が。別に詮索したいわけじゃありません。でも……」


 言葉を続けるアルの声には、いつもの自信に満ちた調子はなかった。その代わり、どこか甘く切ないような響きがあった。


「でも……?」


 桃花が問い返すと、アルはようやく彼女を見た。その瞳は真剣で、どこか迷子になった子供のような色をしていた。


「ただ、あなたがどう思っているのか……それが気になってしまって」


 その一言に、桃花は息を呑む。アルの手の暖かさが、彼の真剣な眼差しとともに心に沁み込むようだった。ピアノの音色が二人の間の静寂を埋める。


「あ、あの……」


 桃花は、言葉を絞り出すように口を開いた。温かく包まれた手が離れないまま、鼓動がさらに速くなるのを感じる。視線を合わせるべきか、逸らすべきか迷いながらも、アルの真剣な表情に引き込まれるように問いを続けた。


「もしかして、今週ずっと……仕事中にご飯に誘ってくださっていたのって……」


 言い淀んだ桃花の言葉を受け、アルは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。しかしすぐに視線を伏せ、どこか気まずそうに小さく息を吐いた。


「……やっぱり、気がつかれてしまいましたね。上手く隠そうとしていたんですけれど」


 アルの声には、いつもの余裕は見られなかった。それどころか、どこか恥じるような響きが含まれている。


「本当に、こんな話をするつもりじゃなかったんです。ただ……」


 アルは視線を逸らしたまま言葉を紡ぐ。


「あなたのことが、ずっと気になって仕方がなかった。仕事の中で、中百舌鳥さんや他の方と話しているあなたを見て……僕には見せない表情があって、それがどんな意味を持つのか知りたいと思いました。特に、今日の会議では」


 桃花はその言葉を聞き、目を丸くする。アルの真剣な告白は不意をつくもので、少しだけ胸が熱くなるのを感じた。


「だから、何度もご飯に誘いました。あなたがどういう人なのか、仕事以外の顔も知りたかったんです。でも……僕はいつも仕事の顔しか見せてもらえなくて」


 アルは言葉を続けながら、最後に申し訳なさそうに小さく笑った。

 桃花はしばらくその言葉を胸の中で反芻しながら、ふと笑みを浮かべた。そして、優しい口調で静かに言葉を返す。


「それなら、そうですね。あの、アル?」


 不意に名前を呼ばれたアルが顔を上げると、そこには柔らかい笑顔を浮かべる桃花の顔があった。


「私、あなたと話すとき……ずっとどんな風なあなたが『作品』になるかしか見ていないんです」


 その言葉に、アルの瞳が一瞬揺れ動く。


「え?」

「仕事の話をしているときも、相談に乗ってもらったときも……アルがどういう人なのかを、私はずっと見ていたんです。それにずっと、仕事の時もあなたのことを考えて、京志郎さんとも、アルのことばかりで……」


 桃花の言葉尻がだんだんとすぼんでいく。しかし、それはアルの緊張を和らげたらしい。


「……そう、だったんですね」


 アルはぽつりと呟き、困ったように笑みを浮かべた。


「じゃあ、僕のほうがあなたを知りたがってばかりで……少し恥ずかしいです。こんな風に、人と付き合ったことはなかったはずなのに」


 その言葉に、桃花も小さく笑い返す。


「お互いさまですよ。だって、こんなふうに向き合って話すのは、初めてかもしれませんから」

「はじめて、ですか?」

「えっと、少なくとも……その、い、異性とは、ですけれど」


 ふいに口をついた言葉にそんな風に尋ね返されるとは思わなくて、桃花は気まずそうに視線をそらしながら頷くしかなかった。


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