桃花は、口をついて出た言葉に後悔しながら、気まずそうに視線を逸らした。「異性とは、初めてかもしれない」と言ってしまった自分の言葉が、思った以上に赤裸々だったことに気づき、なんともいえない気恥ずかしさが襲ってきた。
(嘘……ではないよね?! だって、ほら、前はそんなこと話せる雰囲気じゃなかったって言うか……相手の愚痴とかは聞いていても、こっちの話なんて聞いてくれてなかったし……)
過去のことを思い出しながら、桃花は色々と考えてしまう。自分でもわかっているのだ。前の恋がいいものではなかった、ということも。自分も相手も、きっとどうしようもなかったのだと。
「もしかして、あの、綾乃さんとか?」
そうやってなんだかぐるぐる考え込んでいると、アルがやや驚いたように問い返してくる。桃花は慌てて顔を上げる。
「……まあ、綾乃は大学時代からの友達で……その、過去のこともいろいろと知っているというか、特別な存在ですけど……別にそういう意味ではなくて!」
言葉がどんどん空回りしていくのを自覚しながらも、止められなかった。アルがどう受け取るかを考えれば考えるほど、余計に焦ってしまう。
そんな桃花の様子を見ていたアルは、不意に柔らかな笑顔を浮かべた。その笑顔は、まるで桃花を安心させるためのもののようだった。
「なるほど……綾乃さんは特別な友達なんですね。そういうのは素敵だと思いますよ」
アルの声は穏やかで、どこか親しみを込めた響きがあった。
「素敵、ですか……ええ、まあ……大学の頃から何かとお世話になっていて、あの人には頭が上がらないのは事実、です。過去のいろいろなことも、ずっと支えてくれて……本当に感謝しているんです」
桃花がそう言葉を続けると、アルは頷きながら興味深そうに耳を傾けていた。そして、ふと表情を緩めながら言った。
「素敵だと思います」
「え?」
桃花が驚いて顔を上げると、アルはどこか嬉しそうに目を細めて続けた。
「これまで桃花さんといろいろな話をしてきましたけど、あなた自身のことについては、あまり深く聞いたことがなかったような気がします。でも、そういうところもあなたの魅力だったんですね」
その言葉に、桃花は少しだけ戸惑いながらも、なんとか笑みを浮かべた。
「そ、そうですか? でも、私なんて普通ですよ。本当に特別なことなんて何もなくて……」
「そんなことありませんよ」
アルが即座に否定する。その声にはいつもの柔らかな口調の中に、どこか力強さが含まれていた。
「僕にとっては、あなたがどんなふうに過去を過ごしてきたのか、どんな人とどんな関係を築いてきたのか……そういう話がすごく興味深いんです。特に桃花、あなたのことならば」
「興味深い、ですか?」
自分でもそこまで面白い経験なんてした覚えはない。むしろ、平凡だと思う。確かに嫌な恋愛はしてきたがそれくらいのものでしかないのだ。それを面白いだなんていわれるとは思っていなかった。
「ええ。例えば、さっきの綾乃さんの話だってそうです。桃花さんがどんな人に支えられてきたのか、どんなふうに成長してきたのか。そういうことを知るたびに、あなたのことをもっと理解できる気がして……」
アルの真剣な言葉に、桃花の心はまた揺れた。彼の目は真っ直ぐで、まるで桃花の心の奥底を覗き込もうとしているかのようだった。それが興味本位だけで、桃花のことを全く考えていない。そんなものだったら、きっと桃花もここまで話し込むことはなかっただろう。
「……そんなに深く考えたことはなかったです。でも……」
桃花は言葉を探しながら続ける。
「確かに、綾乃がいなかったら、私は今みたいに前向きになれていなかったかもしれません。彼女はいつも私を気にかけてくれて……だから、アルが興味を持つほどの話ではないと思いますけど」
「そんなことありませんよ」
アルはまたしてもきっぱりと言い切った。
「もっと聞きたいですね、そういう話を。過去のことでも、今のあなたのことでも。あなたがどんなふうに今を生きているのか、そういうことをもっと知りたいんです」
その真っ直ぐな言葉に、桃花はまた少しだけ胸が熱くなるのを感じた。アルの視線が、彼の手の温もりが、じわじわと心に染み込んでくるようだった。
「……そんなこと言われたの、初めてです」
桃花が小さく呟くと、アルは静かに笑いながら彼女を見つめ続けていた。
アルの穏やかな笑顔と言葉に、桃花の心がまた揺れた。
「僕もこんなことを言ったのは……久しぶりです」
柔らかい声でそう告げたアルは、すっと目を伏せる。その仕草には微かに寂しさがにじんでいるように見えた。
「初めて」ではなく、「久しぶり」。
その一言が、桃花の胸にかすかな痛みを呼び起こす。それは、彼が話していた「カナ」という名前の女性、すでにこの世を去ってしまった、彼にとっての特別な人の存在を思い出させるものだった。
「久しぶり、ですか……」
桃花は小さく呟いたが、続けるべき言葉を見つけられずに黙り込んだ。ただ、視線の先にいるアルの表情を静かに伺う。彼の瞳の奥には、普段は見せない感情の波が確かに揺れているのがわかった。何か自分の中でずっと忘れられない。彼の心に焦げ付いてしまった感情が、彼の心を燻らせているのだろうか。
(きっと……今、思い出しているのかもしれない。)
そう考えた途端、桃花の胸がさらに締めつけられるように痛んだ。彼にとって「久しぶり」という言葉の重みが、どれほどのものかを想像せずにはいられなかった。かつて彼が心の底から大切に思っていた人。彼の心の中で、いまだに鮮明に生き続けているその存在。その「カナ」という名前の女性が、どれほど特別で、どれほど深く彼の心を占めているのかを、桃花は何となく理解してしまっていた。
「……ああ、いえ……すみません。こんな……ことを話すなんて」
アルは目を伏せたまま、静かに微笑みを浮かべた。その微笑みはどこか作られたようで、彼が過去の記憶に触れていることを物語っていた。
(きっと、彼は……思い出しているんだ。あの人のことを)
桃花はアルの手の温もりを感じながら、その事実に胸が詰まったような思いになった。自分が握られているこの手は、かつて誰かにもっと深い愛情を注いでいたはずだ。その手の温かさが、まるで「カナ」という名前を呟いているような気がしてならなかった。
そして、そのことを思えば思うほど、桃花の胸には言葉にできないような痛みが広がっていった。彼の過去に立ち入るべきではない、そうわかっていても、彼の中にいるその存在に触れたくなってしまう自分がいる。
アルが静かに口を開いた。