「……実は、僕、こんなふうに誰かと話して、相手のことを知りたいと思うのは……本当に久しぶりなんです。それだけは、本当で……」
彼の声はどこか遠い。今この場所にいながら、彼の心はきっとその過去のどこかにいる。桃花にはそう思えてならなかった。
「……そう、なんですか。」
桃花はなんとかそれだけを絞り出す。言葉をつなげるべきか、迷いながらも、彼が続ける言葉を待っていた。
「ええ……今は、本当に桃花だけですよ」
アルはふっと笑ったが、その笑顔には確かに影が落ちていた。
桃花は、それ以上問いかけることができなかった。彼が話し続けるのを遮るのは、あまりにも無神経だと思ったからだ。そして同時に、彼が語るかもしれない「カナ」という女性のことを聞いてしまうのが怖いとも思った。
ピアノの音色が二人の間に流れ込む。まるで、その音がアルの口にしかけた言葉をそっと隠しているかのように。彼は、もう一度静かに息を吐くと、また桃花を見つめて微笑んだ。
「すみません、変な話をしてしまいましたね」
その笑顔は、あまりにも綺麗で、そして切なかった。
そのまま桃花の「作品」にしたら、きっといいのに。しかし今の桃花にはアルの笑顔を作品にしたいとは思えなかった。その理由を上手く説明できなかった。
「いえ……全然そんなことはないです」
桃花は慌てて首を振る。けれど、その声はどこか震えていた。
(どうしてだろう……彼の過去を知りたいのに、知りたくない。もっと深く踏み込みたいのに、踏み込むのが怖い)
桃花は自分の中で入り混じる感情を持て余していた。
そしてアルもきっと自分の感情を持て余していたに違いない。そんな微妙な距離感をしていた時だった。
ふいに店の奥からスラリとした紳士が歩み寄ってきた。彼は初老の男性で、白いシャツにエプロンを身にまとい、洗練された身のこなしをしている。その顔はどこか親しみを込めた笑顔に満ちていた。一目でいい人だな、と思いたくなるような魅力のある人だった。
「アル様、お久しぶりでございます」
男性が一礼しながら声をかけると、アルは驚きもせずに穏やかに微笑んだ。
「ああ、お久しぶりです。相変わらず素敵なお店ですね」
その返答に、男性、どうやら店のオーナーらしい人物は、嬉しそうに頷いた。そして、アルの隣に座る桃花に視線を移し、目を少し見開いた。
「まあまあ、アル様が女性をお連れするなんて珍しいですね」
突然の言葉に、桃花は驚いて目を丸くする。
「えっ、い、いえ! そんな感じじゃなくて……!!」
(これって何か勘違いされてない?! そ、そりゃあ、私もこんなところにいたら、第三者なら勘違いするだろうけれど……!)
桃花が慌てて否定しようとするが、オーナーは軽く手を振って制するように微笑んだ。
「これはこれは、失礼しました。ただ、アル様がこちらにお連れする方は特別な方に違いないと思いましてね」
その言葉に、桃花の頬が一気に熱くなるのを感じた。周りの空気が急に重たく感じられる。
「ち、違うんです。そんな関係じゃっ……!」
言葉を続けようとした桃花だったが、その隣でアルがゆっくりと口を開いた。
「まあ、そうなってくれたらいいですね」
アルは静かにそう言った。穏やかで柔らかな笑みを浮かべながら。その言葉に桃花は一瞬息を呑んだ。
「えっ……」
何を言われたのか理解するまで数秒かかった。アルが何の迷いもなくそんなことを口にしたことに、桃花はどう反応していいのかわからなかった。ただ、隣で笑っている彼の横顔が、どこか本気のようにも見えて、胸がざわめいた。
オーナーはアルの言葉に満足げに頷いた。
「なるほど、アル様。そういうことですか。それにしても、素敵なお嬢様ですね。お似合いですよ」
「ほ、本当にやめてください!」
桃花はつい声を上げてしまった。これ以上、この勘違いが広がるのは避けたかった。それに、アルの発言がどうしても頭から離れず、自分でも落ち着いていられなかったのだ。
「おやおや、失礼しました。ですが、お二人の雰囲気がとても素敵なので、つい口が滑ってしまいました。」
オーナーは少し悪戯っぽい笑み浮かべている。
「素敵って……その、本当に仕事の帰りで……」
「おや、アル様とお仕事を? それは良いことですね。きっとアル様のお父様も喜ぶことでしょう」
「アルの、お父様……?」
そこで初めて聞いた言葉に、桃花は聞き返した。そういえば、アルだって両親がいるはずなのだ。その雰囲気があまりなくて、アルにもほとんど聞いたこともない話題だった。
「アル様、そういえば、あなたのお父様には大変お世話になりましてね」
その言葉に、桃花は驚いてオーナーとアルの顔を交互に見た。
「お父さん……?」
オーナーは柔らかな笑みを浮かべ、懐かしむように話を続けた。
「ええ。お父様は、私がまだこの店を始めたばかりの頃に、いろいろと助言をしてくださったんですよ。それはそれは的確で、私のような者にはもったいないほどのご助力でした」
アルは特に驚いた様子も見せず、淡々と聞いている。そして少しだけ眉を上げて口を開いた。
「あの方は首突っ込むのが好きですから。きっと父が相変わらず余計なことをしていたんですね」
その何気ない返答に、オーナーはくすりと笑った。
「余計なことだなんてとんでもない。私がこうしてお店を続けられているのは、アル様のお父様のおかげです。お父様の助言がなければ、この店は今のような形では存在していなかったでしょう。それくらいのことをしていただいたんですよ」
桃花はその話を聞いてますます混乱してきた。
「アルのお父さんって、そんなにすごい人なんですか?」
オーナーは少し目を細めて微笑んだ。