「それはもう。ただ……とてもミステリアスな方でしたよ。何をされているのか、全貌は私も知りません。ただ、知識の幅広さと洞察力は、常人のそれではありませんでしたね」
桃花は思わずアルに視線を向けた。
「ちょっと待ってください。アルも謎めいてるけど、お父さんまで謎の人物なんです?」
その言葉に、アルは肩をすくめながら小さく笑った。
「そんなことないですよ。ただ、父は少し変わり者だっただけですから」
「変わり者、ですか……」
桃花は呆れたようにため息をついた。
「おや、何か言いたそうですね?」
アルが笑みを浮かべながら尋ねると、桃花は腕を組んでそっぽを向いた。
「……そりゃあ言いたいことなんていくらでもありますよ」
その言葉に、アルは少しだけ困ったように笑った。
「別にそれを聞いてくださっていいですよ?」
「……言って答えてくれるんですか?」
「それは別問題ですね」
オーナーはそのやり取りを楽しそうに見守りながら、軽く頷いた。
「確かに、アル様はお父様と似ていらっしゃいますね。その探究心の強さや、相手を惹きつける不思議な魅力。お二人とも、そういう部分が本当にそっくりです。だから、素敵な人を連れてきたんですよ。アル様にも負けないほどの、魅力的な方を」
桃花は少しだけ顔を赤らめながら「惹きつける魅力、なんて大げさじゃないですか」と呟いたが、オーナーはそれを聞き流すように笑った。そして、アルに向かって丁寧に一礼すると、「では、どうぞごゆっくりお楽しみください」と言い残し、ようやくその場を後にした。
オーナーの背中を見送りながら、桃花は再びアルに視線を向けた。
「アルのお父さん、どんな人なのかますますわからなくなってきました……」
アルは小さく肩をすくめて笑った。
「僕だって、父のすべてを知っているわけじゃない。だから、桃花が謎だと思うのも無理はないですよ」
「いや、アルも十分謎ですから」
桃花は軽く呆れたように言ったが、その口元にはどこか笑みが浮かんでいた。
(こんなところでアルのことを知ることができるなんて思わなかった)
そんな満足感にも似た感情が桃花の中を満たしていく。
アルもまた、どこか満足げに目を細めて彼女を見つめていた。
「桃花」
名前を呼ばれて、桃花は顔を上げる。アルの瞳がじっとこちらを見つめていた。その眼差しは真剣で、どこか挑むようでもあり、けれど不思議と温かかった。
「僕が謎だって言うなら、いっそ謎のまま、手放したらいいんじゃないんですか? それをしないのは、どうしてですか?」
その言葉に、桃花の胸が一瞬ざわついた。どこか突き放すようでありながら、どこか試されているような感覚がする。桃花は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「……それじゃ意味がありません」
「意味がない?」
アルが少しだけ眉を上げて問い返すと、桃花はうなずいて続けた。
「あなたのことを作品にするなら、そのミステリアスさを前面に出したいんです。それをただ『謎だから』『わからないから』って手放したら、魅力が半減しますから。だから、そのミステリアスなところも、アルの魅力でしょう?」
自分でも少し大胆なことを言っていると思ったが、桃花は目をそらさなかった。それは目を逸らすものではないと思っていたからだ。
その言葉に、アルは目を細め、少し驚いたような表情を見せる。そして、ふっと笑みを浮かべた。
「なるほど。それじゃあ、僕の秘密は秘密のままでいいんですか?」
アルの声にはどこか含みがあり、桃花を試すような調子が混じっている。きっとアルはこれに答えを間違えば、喜んでその弱い部分を突いてくるだろう。何をしてくるかわからない。しかし、それでも桃花は怯まず、しっかりとうなずいた。
「ええ。あなたが言いたくなったら、その時でいいです」
その言葉に、アルは目を見開き、次の瞬間、笑みを浮かべた。彼の笑顔はどこか嬉しそうで、心の底から楽しんでいるようにも見えた。
「……そうなんですね」
「そうじゃないと、私がパンクしますから」
桃花は少しだけ眉を下げながら、正直な気持ちを伝えた。わざと軽い調子を混ぜたその言葉に、アルは驚いたように一瞬固まり、そして桃花の言葉を聞き返した。
「パンクする?」
「ええ」
桃花も小さく笑いながら続ける。
「だって、アルのことって、ちょっと考えるだけでも難しいんですから。何を考えてるのか、どんなことを知ってるのか、普通に話してても謎だらけで……正直、少し疲れるんですよ。それなのに、それ以上に色々一気に言われたら、きっと私ついて行けませんから」
その冗談めいた口調に、アルはまた柔らかく笑った。
「なるほど。僕が全部言ってしまったら、桃花にとっては手に負えない存在になるんですね」
「そうですね」
桃花はさらりと言い切った。そして、少しだけ顔を赤らめながら付け加える。
「でも……興味深いとも思っていますよ。その魅力的なところも」
その言葉に、アルは目を細め、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。その仕草は、どこか照れくさそうにも見えた。
「君って、本当に面白い人ですね」
アルが静かにそう言った時、その声には穏やかな響きが宿っていた。まるで彼自身も、この瞬間を楽しんでいるかのようだった。
「秘密は秘密のままでいいと言われると、なんだか気が楽になりますね」
「私も気楽でいいですよ」
桃花の軽口に、アルはまた小さく笑った。その笑顔は、まるで心の奥底から湧き上がってきたような自然なものだった。
(この人は、何かを受け入れてもらいたがっているのかもしれない)
ピアノの音色が再び二人の間に広がる中、桃花はふと思った。アルの持つ謎めいた空気は、彼自身の魅力そのものなのだと。それをすべて明らかにする必要はないのかもしれない。ただ、今この瞬間の彼の笑顔を見ているだけで十分だと、そう思えてくる。
そんな時だった。アルがスマホが震える音に気づくと、ちらりと画面を確認してから「少し失礼します」と言って席を立った。その仕草は落ち着いていたが、スマホに視線を落とす彼の顔には、ほんの少し緊張感がにじんでいるように見えた。
「何か、あったのかな……?」
桃花は何となく彼の後ろ姿を見送りながら、静かにワイングラスに視線を落とす。ピアノの音色が優しく響く中、アルがいなくなった席には、一瞬だけ微妙な静寂が訪れた。
その時、ふと横からオーナーが近づいてきた。彼は笑顔を浮かべながら、先ほどよりも少しだけ砕けた調子で声をかける。