「お楽しみいただいていますか?」
桃花は少し驚きながら顔を上げた。
「あ、はい。とても素敵なお店ですね。料理も美味しいですし、音楽も素敵で……」
オーナーは満足そうに頷いた。
「それはよかった。あの方、アル様がここに来てくださるのは、とても光栄なことなんですよ」
「そうなんですか?」
オーナーの言葉に、桃花は少し首をかしげた。アルがこの店に特別な縁を持っていることは何となく感じていたが、ここまでオーナーが彼を敬意を込めて語る理由が気になった。
オーナーは微笑みを浮かべながら、そっと言葉を続けた。
「ええ、しばらく来られませんでしたから」
「そう、なんですね。えっと……その理由をお伺いすることは……」
そうやって尋ねてみると、オーナーは黙って首を振った。多分、それ以上は答えられない、という意思表示なのだろう。
「アル様は……なんと言いますか、とても不思議な方なんです。初めてお会いした時からそうでしたが、ただの客ではない特別な雰囲気を纏っておられる。そしてその雰囲気が、周りの人々を自然と惹きつけるんですよ。いい人も、悪い人もです」
桃花はその言葉に納得するように頷いた。
「やっぱりそういう人なんですね……なんか、それはわかる気がします」
当てはまることが多すぎる。正直、桃花も、こうしてアルがいなければもっと面白くない写真集しかできなかった気がする。
オーナーはその言葉にまた微笑みを浮かべる。
「そうでしょう。彼は多くを語らないのに、その一挙一動が印象に残る。私もお父様とお会いしてから、長い付き合いになりますが……アル様もまた、その不思議な魅力を受け継いでいらっしゃる」
「お父さんも……やっぱりそういう方だったんですか?」
桃花が少し驚きながら尋ねると、オーナーは懐かしそうに目を細めた。
「ええ、お父上もまた、どこか影を背負ったような方でしたよ。とても聡明で、こちらが何を求めているのかをすぐに察してくださる。ですが、それと同時に、どこか近づきがたい雰囲気を持っていらっしゃいました。だからこそ、それがまたミステリアスな魅力になっていたのでしょうね」
その話を聞きながら、桃花の中にまたひとつ疑問が浮かんだ。アルという人物がいかに特別であるかはなんとなくわかる。だが、彼の過去や背景には、まだまだ見えない部分が多い。
カナのことは知っているといっても、それだってアルから聞いただけのことだった。
「……アルのこと、まだ全然知らないんだなって思います」
桃花がぽつりと呟くと、オーナーは優しく微笑んだ。
「彼のような方は、一度ですべてを理解するのは難しいでしょう。ですが、それでいいんです。知りたいと思い、少しずつ近づいていくことで、彼という人の本当の魅力が見えてくるものですから。そういう優しい方なんでしょうね」
その言葉に、桃花は何も返せなかった。ただ、目の前のワイングラスを見つめながら、アルの背負っているもの、そして彼自身の秘密に少しずつ触れていくことの難しさと楽しさを同時に感じていた。
その時、少し離れた場所でスマホを耳に当てていたアルが電話を終え、ゆっくりと席に戻ってきた。オーナーはそれを察すると、「では、どうぞごゆっくり」と言い残し、静かにその場を後にした。
アルが再び席につき、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「お待たせしました」
桃花はその顔を見て、どこかほっとしたような気持ちになりながら微笑み返した。
「いえ、大丈夫です。それより……アルって、本当にいろんな人から慕われてるんだなって思いました」
「どういう意味ですか?」
アルが少し不思議そうに問い返すその声には、いつもの柔らかな調子が戻っていた。桃花は彼の言葉に答えながら、今この瞬間だけでも彼の「謎」に少し触れられた気がしていた。
「さっきのオーナーと話をしていたんです」
「おや、どんな話をしていたんですか?」
「それは秘密です」
桃花はアルの問いに、曖昧な笑みを浮かべながらさらりと言った。その声にはどこか冗談めいた響きが混じっているが、心の奥では自分でもよくわからない感情が渦巻いていた。
アルはその言葉に少しだけ目を細め、意味を探るように桃花を見つめたが、すぐに小さく笑った。
「おや、そんな秘密にするんですか?」
「それはお互いさまでしょう?」
桃花は笑い返したが、その声にはわずかな緊張が滲んでいた。アルの穏やかな瞳がじっと自分を見つめているのを感じて、心臓が早鐘を打つ。
ふたりの視線が交わるたび、空気が少しずつ甘く熱を帯びていくようだった。
「そうですね」
アルは小さく頷きながら、また微笑んだ。
「でも、桃花の考えがわからないままでも、話していると楽しいですから。それだけでも十分だと思うんですよ」
その言葉に、桃花は少し目を伏せる。
「そういうことをさらっと言えるから、アルは不思議なんですよ。どうしてそんなに軽く人を振り回せるんですか?」
「振り回しているつもりはないですよ。ただ、本当にそう思ったから言っただけなのに、信じていただけないんですか?」
アルの真剣な声が、静かに胸に響く。彼の穏やかな表情と、どこか隠された真実を抱えた瞳。それがわざとだとわかっているにも関わらず、なんだか信じてしまいたくなりそうになるのは、きっとアルの魅力なのだろう。本当に、この人は確かに人を惹き付けてしまうのだ。
「でも、信じられないなら仕方ないですね。だったらそろそろ帰りましょうか?」