アルが立ち上がり、席の後ろに置いていたジャケットを軽く整える。その姿はどこまでも自然で、隙がない。そんな彼の動きを見ていると、またしても心がざわめく。
アルがジャケットを着るのを待ちながら、桃花はふとつぶやいた。
「そうですね。なんだか、もう少しここにいたかった気もしますけど……」
その言葉に、アルは意外そうに眉を上げた。
「そう思うなら、もう少しだけここにいますか? オーナーも歓迎してくれますよ」
その優しい声に、桃花は慌てて首を振った。
「い、いえ、そういう意味じゃなくて! なんとなく、落ち着く場所だったなって思っただけです」
さすがにそこまでしたいわけではない。それにこれ以上長居してしまうと、いつまでもアルと一緒にいるこの空間に浸ってしまいそうだったのだ。アルはその反応にまた微笑み、軽く肩をすくめた。
「それならよかった。この店を気に入ってくれたのなら、僕も嬉しいです」
「ええ、素敵な場所でした」
桃花は立ち上がりながら、微笑みを返した。
できるだけ隙を見せたくはないのだ。なんだか、その瞬間に、全部をアルに話してしまって、何もかも彼の思うままになりそうな気がするからだ。
アルがふと手を差し出す。
「行きましょうか」
「あの、お会計は……」
「もう済ませています。決済アプリは便利ですね」
そう言われてしまえば逃げられない。その手を見つめ、一瞬ためらった後、桃花はゆっくりとその手を取った。彼の手のひらの温かさが伝わり、また胸が高鳴る。
(手なんて、繋いだところでどうしようもないのに)
店を出ると、夜の冷たい空気が二人を包み込んだ。アルが軽く桃花の手を引きながら、歩き出す。ふたりの間に流れる空気は、言葉がなくとも柔らかく、そして甘やかだった。
(こうして一緒にいると、ついこのまま甘えてしまいそうになる)
そんなことを思いながら、桃花はアルの横顔をちらりと見た。彼の穏やかな笑顔は、夜の街灯に照らされてどこか神秘的に見えた。
(この人、そのままどこかへ消えてしまいそうな雰囲気さえあるなあ)
夜の街灯が二人の影を長く伸ばす。駅へ向かう道は静かで、時折聞こえる車の音が、その静けさを際立たせるようだった。アルは桃花の隣を歩きながら、ふと口を開いた。
「桃花」
名前を呼ばれるだけで、胸が少しだけざわつく。桃花は顔を上げ、アルの方を見た。
「何ですか?」
アルは少しだけ笑みを浮かべたまま、真っ直ぐに桃花を見つめた。
「明日から、また手伝いましょうか?」
その言葉に、桃花は思わず足を止めた。驚きと戸惑いが混ざり合い、彼を見つめる。
「え……でも、アルにはアルの仕事があるんじゃないんですか?」
「そうかもしれませんね」
アルは軽く肩をすくめて、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
少なくともなんらかの手段でお金を稼いでいるのだと思う。それが何かよくわからないが、聞いてみてもいいのかはよくわからない。
「ですが、桃花の仕事を手伝う方が楽しいんですよ」
「楽しいって……」
桃花は困ったように視線を逸らし、軽く笑った。
「ダメですよ。ここからは、もう自分の仕事もしないといけませんから。それにアルがいたら困ることもありますし」
「そうですか」
アルは一瞬だけ寂しそうな表情を見せたが、すぐに柔らかな笑顔に戻った。
「それは寂しいですね」
その一言が、桃花の胸を少しだけ揺らした。彼の穏やかな声には、冗談とも本音ともつかない優しさが滲んでいる。それがかえって胸に刺さるようだった。
「……ダメです」
桃花はからかうように笑って言った。
「ここで甘やかしたら、アルがますます調子に乗っちゃうでしょう?」
その言葉に、アルは楽しそうに笑い声を上げた。
「それはひどいですね。そんなことしたりしないのに。でも、そういうところも桃花らしいですね」
二人はまた歩き始めた。駅までの短い距離を、一歩一歩踏みしめるように歩く。
不思議と心地よい静けさが二人を包んでいた。
やがて駅にたどり着く。駅について自然と手が離れた。桃花が改札を通る準備をしていると、アルが少しだけ後ろに立ち、優しい声で言った。
「じゃあ、ここでお別れですね」
桃花は振り返り、彼を見た。その表情はいつものように穏やかで、どこか寂しさも隠れているようだった。それが演技なのかどうかは、桃花にはわからないし問い詰めるつもりもない。
「そうですね。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったですよ」
二人の間にまた短い沈黙が流れる。夜風が駅のホームを吹き抜けていく。
桃花は少しだけ息を吐き、軽く手を振った。
「それじゃあ、また」
これ以上は触れたりしない。そんな意思表示だった。
アルは静かに頷き、微笑みを浮かべた。
「また会いましょう、桃花」
その言葉を胸に残しながら、桃花は改札を通り、ホームへと向かった。振り返ると、アルがその場に立ったまま、こちらを見送っている。電車がやってきて、桃花は乗り込む。座席に腰を下ろし、窓越しに改札の外を見ると、アルはまだその場所に立っていた。
「なんで、ずっとそうやって待ってくれているんだろう」
車内の灯りと外の街灯が微妙に交じり合う中で、アルの姿が浮かび上がる。彼はまるで何か眩しいものでも見つめるかのように、静かにこちらを見つめていた。
電車がゆっくりと動き始める。窓越しにアルの姿が少しずつ遠ざかっていくのを見ながら、桃花は自然とその姿を追ってしまう。
彼もまた、動き始めた電車をじっと見つめていた。遠ざかる桃花を見送るその瞳は、穏やかで、どこか寂しげだった。
(温かさが……消えていくみたい)
胸の中でそんな言葉が浮かんだ。彼と過ごした時間の名残が、夜の風に溶けていくような感覚。それが、少しだけ切なかった。
電車の窓越しに視線が交わり続けた時間は、ほんの数秒だったのかもしれない。しかし、桃花にとってはそれがとても長く感じられた。
電車が駅を出て、アルの姿が完全に見えなくなる。窓に映る自分の顔を見つめながら、桃花は小さく息を吐いた。
「……また、ね」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、そっと窓に目を閉じた。なんだか目を閉じていても、アルのことばかりが浮かんできて。
これをそのまま「作品」にできたらどれだけいいだろう、なんてそんな思いが桃花の中に湧き上がってきた。