その次の日、桃花は強い日差しを避けるように急ぎ足で職場へ向かっていた。今日は別件の撮影のための資料作りが主な仕事だ。アルとの時のように、外での撮影とは違い、クーラーの効いた部屋で進める作業は涼しいが、気を抜いていると時間がどんどん過ぎてしまう。気を引き締めて臨まなければならない。
「昨日のことも顔に出しちゃいけないよね」
そう自分に言い聞かせる。そうしないと、何を口走ってしまうかわからない気がした。今から職場なのに、別のことを考えてしまいそうになるのだ。
せっかくここまで任せてもらえているのに、こんなところでそんな真似はしたくない。
そう思いながらドアを開けると、すでに何人かの社員が席についていた。それぞれの作業に取り掛かっている。桃花も「おはようございます」と挨拶を交わし、自分の席へと向かった。椅子に腰を下ろし、資料作りに必要な参考写真やデータを整理し始めたところで、少し離れた席にいる先輩が声をかけてきた。
「おはよう、望月さん。今日も暑いね」
「おはようございます。はい、今日は資料作りを進めようと思っていて」
いきなりどうしたのだろうか。
何かあったのか、と桃花はいぶかしんでしまう。
もちろん職場だから話すことはあるのだが、こんな風にいきなり朝来て早々に話しかけられるのは珍しい。
「なるほどね。何か手伝えることがあったら言ってね」
「あ、ありがとうございます、大丈夫です! 資料さえまとまれば、午後にはデザインチームに渡せると思うので」
会話を終えて再び作業に戻ろうとしたその時、先輩がふと思い出したように話題を変えた。
「あ、そういえば望月さん。昨日まで手伝いに来てくれていた、あのかっこいい男の人、もう来ないの?」
その一言に、桃花の手元がピタリと止まった。資料の並びを確認していた指先が硬直する。突然の話題に、動揺を隠しきれない。
「……え?」
「ほら、撮影の時にいた彼よ。長身で涼しげな雰囲気の。あんなに雰囲気のある人、久しぶりに見たからちょっと印象に残ってて。編集長に聞いても、ちょっとした知り合いとしか教えてくれないでしょう? 何かあるのかなって気になっちゃって」
先輩の言葉に、桃花はなんとか冷静を装おうとした。だが、昨日のアルとの出来事が一気に頭を駆け巡る。あの穏やかな笑顔、静かに別れを告げた駅での視線。そのすべてが蘇ってくる気がして、一気に自分の中の温度が下がった気がした。
「ああ……えっと、今度のモデルさんで。どうしても自分でこだわりたい部分があるからってついてきてくださったんですよ」
なるべく自然に返そうとするが、声が少しだけ震えている気がする。
「そうそう、モデルさんだろうなって思ったんだけど。ねえ、もう来ないの?」
先輩の声が今は少しだけ耳に痛い。
本当は今日だって来てくれるはずだったのだ。それを断ったのは桃花自身なのだと、そんなこと言えるはずもない。
「えっと……多分、もう来ないと思います。彼も忙しいみたいですし、手伝いは昨日で終わりだったので」
資料をめくりながらそう答えたが、胸の奥ではざわつきが止まらない。先輩はそんな桃花の様子に気づくこともなく、楽しそうに続けた。
「そうなんだ。なんだか不思議な人だったわね。すごく落ち着いてるのに、存在感があって。望月さん、仲良さそうに話してたけど、昔から知り合いだったの?」
「いえ、そんなことはないですよ。撮影の縁で知り合っただけですから」
声をできるだけ平静に保とうとする。だが、アルの手の温かさや、彼の優しい言葉を思い出してしまい、顔が少し熱くなるのを感じた。先輩が続けて何かを言い出す前に、桃花は慌てて話題を切り替えた。
「それより、あの……この撮影の資料なんですけど、全体の構成を一度確認していただいてもいいですか?」
「あ、もちろん。見せてちょうだい。うん……よくできてる……でもここの資料が甘いような……ちょっと待ってね。確かデータがパソコンに……」
先輩が席を立ち、自分のパソコンの方を確認しようとする。その間に、桃花はなんとか動揺を抑え込み、目の前の作業に意識を集中させることにした。
そうしなければ、自分でもおかしくなってしまいそうだったのだ。
(仕事に集中しなきゃ。アルのことを考えてばかりじゃ、何も進まないし……それに相手だって何も思っていないかもしれないんだから)
そう自分に言い聞かせながらも、ふとした瞬間に昨日の彼の表情が脳裏に浮かんでしまう。どこか掴みどころがなく、けれど不思議なほど心の中に居座ってくるのだ。
顔がいい人ならいくらでも見てきたのに。アルだけはそうじゃないなんて、そんなことを思ってしまうくらいには自分でもおかしくなっているのを感じている。
「こんなふうに仕事中に思い出すなんて、どうかしてる……」
小さな声で呟いた言葉は、もちろん誰にも聞こえなかった。
それでも胸の奥には、昨日の余韻がまだ甘く残っているような気がして、桃花は資料に向かう手を少しだけ早めた。