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第75話 心配されている

 その日、アルは結局一日、姿を見せなかった。

 もしかしたら、昼休みは帰り道などにひょっこりその姿を現すかとも思ったのだが、そういうこともなく、平和に仕事が終わって平和にそのまま帰路についた。


「まあ……相手も、何らかの仕事はしてるだろうし、そんなふうにずっとこちらに構っていることもできないだろうし」


 アルのことはまだわからないことは多いのだが、アルの父親が人に出資ができる程度にはお金持ちということは、アルも何か事業に携わっていてもおかしくないのだ。


「……まあ、そう、だよね」


 あの余裕は普通の人ではない。というより、出会った時からずっと普通の人ではないのだけれど。


「だから、こっちにばっかり関わっていられないよね」


 それに少しだけさみしいだなんて、そんな馬鹿な事を思う自分もいて。

 そう思っていたら、電話がかかってきていた。


「……もしもし」


 手元に丁度あったから。

 寝る時間には少し早かったから、そんな言い訳をしながらそっと電話を取った。その電話の相手は、確認しなくてもわかっていた。


『もしもし、今は大丈夫そうですか、桃花?』

「……なんで、そういうタイミングを逃さないんですか?」


 まるで桃花の生活を覗き見しているようだ。

 迷惑にならなくて、なおかつこちらが断りにくい。

 そういうタイミングを選んでいるようにさえ思える。


『桃花とせっかくこうして電話をすることができるんです。そんな大事なタイミングを逃すようなことはいたしませんよ』

「……監視カメラとかはつけてないんですよね……?」

『調べてもらっても構いませんよ』

「……しませんよ。そういうこと、する人じゃないとは信じているので」


 アルは確かに得体が知れないし、未だに分からないところは多いけれど、そういうことをする人ではないということはわかっている。


『よかった。信じて頂けてとても嬉しく思っています』


 その言葉にアルは少しだけ笑ったようだった。


『お仕事の方は順調ですか?』

「おかげさまで結構進みました。でも少しだけ意外でした」

『意外?』

「えっと……アルが、いきなり会いに来るかと思っていたんですけど、そういうこともなかったので」


 こんな真実を言うべきかどうか、桃花も少しはためらった。その言葉を口にしてしまえば、まるで自分が彼を待ちわびていたように聞こえてしまうかもしれない。そう思ったからである。しかし、アルはそんな言葉に嬉しそうだった。


『桃花に止められてしまいましたから。だからそれをちゃんと守ろうと思ったんです』


 アルは桃花の言葉を律義に守ったということを強調したいらしい。

 そんな言い方をしなくてもいいのに、と桃花は少し苦笑する。


「だったらもう少しだけ待っていてくださいね。綾乃や京志郎さんとも、打ち合わせを重ねますから」


 アルがになればこちらの作戦なんて、簡単に潰せることはわかっている。だから、そうせずに大人しくしてもらう為に、まるで子どもに言い聞かせるように、そういうとアルもその言葉に引っかかりを感じたらしい。


『中百舌鳥さんとも? もしかして二人っきりでどこかの怪しげなクラブにでも行くつもりですか?』

「……えっと」


 もしかしなくても、アルにどうやって京志郎と接触したのかバレているようだった。


『桃花もいい大人ですから、こうやって留めることをしてしまうのはよくないとわかっているんです。ですが、夜遅くに出歩くのは感心しません。特にあの辺りはそれほど治安がいい場所でもありませんから』

「そこまで心配しますか?」


 桃花も何年も社会人をやってきているのだ。

 だからそんな夜道を歩くだけで、そこまで心配されると思っていなかったのである。


『当たり前です。あなたが僕のことを心配するなら、僕も桃花を心配してもいいはずでしょう?』

「まあ、そうですけれど」

『ちゃんと中百舌鳥さんにはくぎを刺しておきましたけれどね』

「えっと、それって……」


 もしかして、前の会議の時のことなのだろうか。

 綾乃と話をして帰ってきた時に、京志郎がなんだか妙にげっそりとしていたのはもしかしたらアルが、何か京志郎に忠告でもしていたのではないだろうか。

 そんな思いに至っているとクスクスと電話口でアルが笑う。


『どうでしょうね?』

「教えてくれないんですか?」

『桃花が僕に秘密を抱えているなら、僕も同じように秘密を抱えていたっていいはずです』

「……たぶん、その秘密の総数、どうやって数えてもアルの方が多いですよ」

『数え方にもよりますよ。特に、こういう実数があるものではないものは人によって認識の齟齬が大きいんです』


 あえて小難しい言葉を使って、彼が戸惑わせようとしてきていることは分かる。

 だが、そんな言葉さえも桃花は嬉しかった。

 それからくだらないことをいくつか話した。今日のお昼は何を食べたとか、何時ごろに退社をしただとか。先輩の社員が、アルがいなくなっていたことは残念がっていたなんて、そんな他愛もない話をいくつか。

 時間としてはそれ程長くなかったように思える。だが、それが心地よかった。


『そうですか。そんなことがあったんですね』

「ええ。まあ、うちの職場、モデルさんも出入りすることはあるから、あまりそこまで気にしている人もいなかったですけれど」


 アル以上の美形はそれほど多くはないだろうが、それでもモデル、と呼ばれる人は大勢出入りする。

 それこそ打ち合わせから、自分で仕事を手伝いたいなんて言ってくれる人もいないわけではない。

 きっとアルもそんな人たちの一人に思われていた。


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