「じゃあ、それをこっちにのせてもらってもいい? ちょっと頭と服のバランス見てみたいから」
そんな会話をしていると、綾乃が声をかけてきた。
「やっぱり、本当の人間じゃないからちょっと、勝手が違うね」
薄いサテンの生地をマネキンにまとわせて、綾乃がぽつりと零した。綾乃が服を着せているマネキンは京志郎のものとは違い、桃花の会社にあったマネキンの中で一番アルの体格に似たものを選んだだけのものだった。
「それでも似合うよ」
その目の前には、今回アルが着るはずの衣装があった。
いくつか縫製が甘いところがあるが、そこは仮縫いということだろう。
今回はファッションブランドの宣伝ではなく、「アル」というモデルを魅力的に見せるための撮影である。
「でも、これじゃあ、細部は撮影当日になんとか調整しないといけないな。そうしないと、わからないところも結構多いよ」
綾乃がため息をついた。
彼女だってプロである。本来ならばアルをマネキンにして、サイズ感や実際に着た感想などを聞き出したかったに違いない。
そうやって何度も調整を加えて、やっと本来ならば出来上がるものなのだから。
「……ごめん」
「もう、どうして桃花が謝るの?」
綾乃尋ねられて、思わずうつむいた。
「だって、私のわがままでもあるし」
桃花がアルを救う為にこれしかないなんて思ってしまったから。
そのせいでこんなことになっている。
桃花もそれは自覚している。
「そないなことないって。あの男があないなこと言い出したからこうなったんや」
「……でも、プロの仕事だから」
ここまで打ち合わせをしてきて分かる。二人ともプロだ。だから、ぐらいのポテンシャルならばもっと違うことができたに違いない。それをあえてさせないで、ここまで制限された状態でやらなくてはいけないような状況に持っていくことになってしまった。
それで良い「作品」を作りたいだなんて、自分だけの気持ちで言ってしまっていいのだろうか?
それに桃花は罪悪感を抱く。
「どんな状況でもしなくちゃいけないっていうのもプロでしょう? それにそういうことは、打ち合わせの時点で最初からわかっていたことなんだから、今更気にしてないよ。それより今回はけっこうコンセプトも分かりやすいし、理不尽なことを言われたりもしない。そのほうがよっぽどいいって」
「……綾乃」
「そうやで。全部が完成してから、何もかもひっくり返すような奴もおるからな。その点、桃花お姉さんはそういうことできへんやろ? やから、それだけでもよっぽどええんや」
「京志郎さん」
そんな二人の言葉に桃花は少しだけ救われた気がした。どんなに心の中で葛藤していても、目の前の人たちがこうやって自分を信じて支えてくれるなら、もう少し頑張れる気がする。
「ありがとう、本当に。二人がいてくれてよかった、です」
そう小さく呟くと、綾乃と京志郎は軽く目を合わせて、同時に微笑んだ。その空気感に、桃花の心のざわめきは少しずつ静かになっていった。
「それに、あいつ居ったらそれはそれで厄介やしな。あれ、ああ見えて結構拘り強いんや」
「え、そうなの? 中百舌鳥くん、もうちょっと教えて。それ、衣装とかでも言われるかな? っていうか、やっぱりあの人って素人じゃないよね」
「まあまあ。今回はシチュエーションがシチュエーションやからそこまで言ってこへんと思うけどなあ。でも、お姉さんも、修正するものはしっかりしといたほうがええで」
京志郎はアルの正体が「櫻木昴」とは言わなかったが、京志郎は綾乃に若干冗談めいた口調で警告した。
「あいつは笑顔で嫌味も普通に言えるやつやからな。普通のやつよりも、そういう意味では性質が悪いんや」
「……そ、その時は、なんとか説得するから……!」
綾乃が何をもっていくかを思案しているので、思わず声をかけた。
今でも充分無理を言っているのだから、これ以上迷惑をかけたくない。
「ううん。これはちゃんとしておいた方がいいよ。そういう相手って後で何言ってくるかわかんないんだよ? 桃花も、そこはきちんとしておかないと、足元すくわれるって!」
それに綾乃は首を振った。
しかも妙に実体験が伴ったような真剣な言葉に、桃花も言い返すことができない。
アルは確かに優しい。
食事には誘ってくれるし、その時だって妙なことは一切しない。しかもその時、食事の代金はすべてアルが出してくれる。
だが、そういうことではなくて仕事になった時に彼がどんな反応をするかというのはまだ想像できない。
(一応、櫻木昴の仕事分に関してはもう一度調べ直してみたけど、その情報も結構曖昧なところも多いし……)
櫻木昴という男は、性格は穏やかで、仕事はかなり真面目だったという情報しか出てきてはいない。
時々、週刊誌などで描かれるような遅刻グセのあるアイドルや使いにくい俳優とは真逆の、穏やかでスタッフに対しても理不尽に怒ることもなく、穏やかに仕事を進行する人だったと言われている。
ただ同時に、相手を見極める能力が非常に高くて、そのせいでいくつか仕事を断る企業があった、と。
もちろん、それが消えてしまった相手に対するまことしやかに囁かれる、都市伝説のようなものかもしれないが、そう言われても仕方ないほどのオーラがあったこともまた事実である。