そうやって、桃花は計画を進めようとしていた。だが、なかなか前に進めようとすると、仕事がギリギリになっていく。その日も、夜の帳がすっかりおりた駅のホームは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
電車が発車し、去っていく音だけが遠ざかり、駅の構内にはわずかな人影しか残っていない。
桃花は、打ち合わせに夢中になりすぎて、すっかり時間を忘れていた。
スマホの画面には、すでに終電の時間が迫っていることを示す数字が浮かんでいる。
「こんなに遅くなるなんて……」
ひとり言を言いながら、駅の改札を抜けようとしたその瞬間だった。
「遅かったですね」
穏やかな声が耳に届いた。驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、アルだった。
「……えっ?」
思わず立ち止まる。彼は駅の柱にもたれかかり、まるでずっとそこにいたかのような余裕のある態度でこちらを見つめていた。
恐ろしく整ったその顔。夜の静けさの中で、アルは妙に際立って見えた。
「どうして、ここに……?」
「あなたが遅くなると思ったので。ここで待っていました」
そう言って、彼は柔らかく微笑んだ。
「まさか待っているなんて、って顔していますよ」
「……そう、ですね」
桃花は正直に答えながら、目を瞬かせた。本当に、一体どういうつもりでこんな時間まで待っていたのだろう。
「アル、ずっとここにいたんですか?」
「……仕事が終わる時間を見計らって、近くにいました」
「……待ち伏せしていたってことですか?」
桃花が思わず詰め寄ると、アルはクスッと笑った。
「そんな言い方をしなくても。ただ、あなたが一人で帰るのは危ないと思って、それだけですよ」
「そんなに心配しなくても、私はもう大人ですし」
「ええ、知っています。でも、夜遅くに一人で帰らせるのは、僕の気が済まないので」
彼の言葉には、いつものような余裕がある。
「それとも、僕に送られるのは迷惑ですか?」
そう尋ねるアルの瞳が、まっすぐに桃花を見つめている。その真摯な眼差しに、一瞬言葉を詰まらせてしまう。
本当に、この姿だけでも「作品」にしたい。きっと夜の闇に映える、美しい作品になるだろう。
「……別に、迷惑とは言ってません。でも……」
「なら、決まりですね」
アルは静かに歩み寄ると、桃花の荷物をそっと手に取った。
「荷物、持ちますよ。お疲れでしょう」
「い、いいですよ! そんなことまでしなくても!」
慌てて手を伸ばすが、アルはあっさりとかわし、もう片方の手で桃花を優しく促した。
「歩きましょうか」
まるで当然のように言われて、桃花はもう反論の言葉を探すことをやめた。
(……なんで、こんなに自然にエスコートするの、この人……)
納得がいかないような、けれど少し嬉しいような気持ちが胸をよぎる。彼と並んで歩き出すと、夜風が静かに頬を撫でた。
駅前の通りを並んで歩きながら、桃花はチラリと隣のアルの横顔を盗み見た。
彼は何も言わず、ただ穏やかな表情で前を見つめている。その様子が、なんだかとても頼もしく思えてしまうのが悔しい。
(……私、こんなに簡単に安心しちゃっていいのかな。というかこれ、普通なら待ち伏せとか、それこそストーカー案件だよね。でも、アルはそういうことをされていたこともあるし……それに、そういうことする人じゃないって、私も知っているし、こういうのって何て言ったらいいんだろう?)
そんなことを考えていると、アルがふと口を開いた。
「桃花、今日は何を話していたんですか?」
「え……?」
「会議、長かったでしょう? 何か問題でも?」
「あ……いや、ちょっと、準備に時間がかかりそうなことが分かって。その打合せをしてから仕事をしていたら、どうしても遅くなってしまって」
桃花は曖昧に答えながら、アルの問いかけに少しだけ戸惑った。まさか、京志郎と綾乃と一緒に「どうやってアルを対処するか」なんて話していたとは言えない。
「そうですか」
アルはそれ以上深くは追及せず、ただ微笑んで言った。
「桃花、頑張っているんですね」
「……まあ、一応」
そんな風に言われると、なぜか少しだけ気恥ずかしくなる。
(なんだろう、この雰囲気……)
妙に落ち着かなくなり、桃花はそっと顔を逸らした。
「じゃあ、せっかくですし、僕ももう少し協力しましょうか」
「え?」
「あなたの撮影、できるだけ成功させたいですから」
そう言って、アルはふっと優しく微笑んだ。
「何でも言ってくださいね。僕ができることなら、手伝いますから。とはいっても、僕を信用しすぎない範囲で」
アルは、夜の街灯の下で微笑みながらそう言った。穏やかな口調だったが、どこか意味深な響きを含んでいる。
「……今更そんなこと言われても。いきなりすぎるというか……あ、撮影の日ちゃんと来てもらうとか、それくらいしかないですよ」
桃花はため息交じりに答えた。もう十分すぎるほど信用してしまっているのに、今さらそんなことを言われても遅い。
「だったら、これをあげますね」
アルはふっと笑うと、ホットレモンを差し出した。
「……え?」
「さっきコンビニで買いました。夏なので熱いかと思いましたが、もう飲み頃かと。夏でも夜は冷えますし、温かいものを飲んで少しでも落ち着いた方がいいですよ」
桃花は驚きながらも、その温かいホットレモンを受け取る。指先にじんわりと温もりが伝わり、デスクワークのし過ぎでこわばった手が少しずつ解けていく。
「……そういうところ、ズルいですよ」
思わず呟くと、アルは軽く肩をすくめた。
「ズルいとは心外ですね。ただ、桃花に無理をさせたくないだけです」
「……でも、京志郎さんとかは、アルのことを『ぐちゃぐちゃにする』って言ってましたよ。だから、無理することにはなるかと思うんですけれど」
「……へえ」
アルの表情が少しだけ変わる。だが、それは驚きでも不満でもなく、むしろ面白がっているような色を帯びていた。
「それは楽しみですね」
「楽しみ……?」
桃花は呆れたように聞き返したが、アルは特に気にした様子もなく、ただ薄く微笑んでいた。
二人はそのまま歩き続けた。夜風が肌を撫で、静かな住宅街に入り込むと、一層の静寂が二人を包む。桃花のマンションが見えてくると、アルは自然な仕草で立ち止まった。
「ここまでですね。楽しかったです」
「……今日は、ありがとうございました」
「いえ、僕が勝手にしたことですから」
アルはそう言いながらも、どこか満足げだった。まるで、こうして送り届けることが当然であるかのような態度で。
「では、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
そうやって挨拶を交わして、それからそのままマンションに入ろうとして、桃花はホットレモンのカップを握りしめながら、ふと振り返った。
多分、アルの後ろ姿だけでも見たかったのかもしれない。
「あ……」
そこで見てしまった。
アルは静かにリムジンへと向かい、その黒い車体のドアが開く。彼はゆっくりと車内に乗り込んだ。
(あんなもの、深夜に乗れるだけの人なんだ……)
エンジン音が静かに響き、リムジンがゆっくりと発進する。その後ろ姿を見送りながら、桃花は小さく息をついた。
(……あの人の本当のこと、終わったら教えてくれるのかな)
アルは一体、何を隠しているのか。本当にすべてを話してくれるのだろうか。
妙なざわつきが胸に残ったまま、桃花はそっとホットレモンを口に運んだ。優しい酸味と甘さが、ほんの少しだけその気持ちを和らげてくれるような気がした。