そうやって撮影当日になった。
「……」
資料も準備もできる限りのことはしている。桃花がここからできることと言えば、できるだけ当日のコンディションを整えることくらいのものだった。
「……わりと、眠れたかも」
それでも緊張して眠れないことは考えられた。もしかしたらそうなってしまうかもしれないと、自分でもわかっていた。しかし、朝起きてみるとそんな倦怠感はなく、むしろよく思い返してみても、少しだけドキドキしていたが、それでもベッドの中に入ってしまえば 、そこまで思い悩むこともなく眠ってしまったことが時計の数字を見ても明らかだった。
「大丈夫、だよね」
敢えて言葉にしてみる。大丈夫だと思っているのに、それは本当に大丈夫なのか?と自分の中で問いかけてくるもう一人の自分がいる。
「アルのこと、いろいろと対策を立てているし。それに彼自身も……たぶん、来てくれると思うから」
そう思いながらスマホを確認。
特に緊急の連絡は来ていない。何かイレギュラーなことが起こっているわけでもなさそうだ。
それに安堵の息を吐いて、ベッドから這いだした。
「後は……撮影だけ」
もう一度、頭の中で段取りを確認する。
今日の仕事は撮影だけ。最高の「作品」を撮る。それだけに全神経を集中させる。
「それじゃあ、行ってきます」
結局、朝の用意をいつも早く終わってしまった。それ以上家の中に居るにしても、何だか自分がそわそわしてしまって、そのまま家を出た。その時に思わずそういった。
次にこの部屋に帰ってくるときは、全部が終わった時だ。
撮影も、アルのことも。
今日の、これからのことで全部が決まる。
そう思うと、口の中がなんだか乾いていくような、そんな錯覚さえ起こしてしまっていた。
「おはようございます」
「……えっと、おはよう、ございます」
そして、会社に出社してみると、すでにアルが来ていた。
当然のように来客用の椅子に座って、のんびりと今日の資料を確認しながらコーヒーを飲んでいる。
その姿はできる外資系のサラリーマンのような印象を抱くが、それにしては顔が整いすぎているので、そこで違和感があった。
どことなく普通に座っているだけでも引いてしまうような、そんなかっこよさがある。しかも今回は撮影のためか、メガネやサングラスの類を一つ持して居ないため、顔を隠すものは何もないのだ。そのせいで、余計にその顔が整っていることを実感してしまう。ただ、撮影のために一切メイクをしていないらしく、うっすらと顎のラインに沿って、影のような傷跡が見えていた。
「早く、ないですか?」
アルがどこに住んでいるかは詳しく知らないが、こんな朝早くにモデルが来るとは思っていなかった。
「今日がとても楽しみでしたので、少し早めに来てしまいました。だから気にしなくていいですよ。僕は参加していいころまでは、僕は飯田編集長といっしょにお話でもしていますから」
その「お話」とやらがどんな話なのかは知らないが、だがちゃんと来てくれたことに安堵があった。
「そう、ですか……」
思わずそうやって中途半端な言葉を詰まらせると、アルがにこやかに言った。
「もしかして、今なんだか安心しました? 僕がここに来てくれて本当によかったって」
「……信用していましたよ」
あそこまで言っていて、逃げるようなことをするような人ではないと思っている。ただ、少しも不安がないといえば、ウソになるのだ。
自分自身のことを破滅させるような真似を平気でしようとするアルが、もしかしたら撮影当日に何らかの作戦を練っていてもおかしくない。むしろ、そうしないほうがおかしい。
そういう考えが桃花の中にもあったのである。
「それでも不安だったんでしょう? それなのに……昨日はちゃんとよく眠れたみたいですね。よかった。うん、顔がスッキリしています」
アルが顔を覗き込んでくる。
穏やかなアルの顔。もうすっかり見慣れた顔立ちだと思っていたのに、こうして近くにれると、それだけで胸が高鳴ってしまう。視線を交えそうになるだけで目を逸らしてしまい、顔が赤くなってしまうのはわかっていた。
だが、それがどういうことかを考える前に、桃花はアルの手元の資料を指さした。
「今回はメインのスタジオを使うので、そのつもりでお願いします。あ、それと綾乃が最後に衣装を合わせたいそうなので、それをお願いします」
「わかりました。それ以外に僕はできることは?」
「後は京志郎さんがついたら……メイクの準備もお願いします。たぶん、京志郎さんが後は仕上げてくれるはずですから」
桃花はそう言って頷いた。
京志郎のメイクが一番時間がかかるのはわかっている。だから、早めに来てほしいとはちゃんと伝えている。だから、それほど待ち時間はないはずである。
「そうですか。わかりました。では、桃花、楽しみにしています」
アルはその言葉に頷いて、また笑って見せた。
穏やかに、何をされるのかわかっていないはずであるのに。全てを見透かしたような瞳でうなずいてくるのである。
「……私も、本当に楽しみにしています」
それは、紛れもない本音だった。だが、本音の中に別の感情があることを、きっとアルにも知られてしまっていたことだろう。