しかし、それをアルは指摘するようなことはしなかった。ただ、穏やかにそれに笑い返して来ただけで、それ以上は口にしない。
「では、その前に挨拶でもしてきますね」
アルはにこやかにそういって立ち上がった。
「……はい」
桃花はそれに気がつかれないように息を吐いた。
「……とりあえずは……アルが来てくれてよかった」
ここで彼が来てくれなければ、何もかもが終わってしまうところだった。それだけは避けられた。
だが、勝負はここからなのだ。
「……怒られて恨まれてしまったとしても、それでも私は……何て、きっと今までの考えもしなかったのに」
アルからはもう聞こえないだろう廊下に出て、桃花は小さく呟いた。
「櫻木昴」からしてみれば、考えられないほどの侮辱である。
そんな行為を、今から桃花はアルにしようとしている。
そして、それを悟られないように、無理やりに微笑んだのだ。
その罪悪感に押しつぶされそうになる自分がいた。
「……おはよう、桃花お姉さん……って、なんやその顔?」
そこへ京志郎がやってきた。
いつものように遠目から見てもすぐに分かるようなその顔立ち。それにひときわ大きな荷物を背負っている。緑と白と一房の金色の髪もあいまって、ファンタジー小説に出てくる、物売りのような出で立ちである。
きっとでなければ、すぐに気がつけたことだろう。しかし、そんな京志郎のことさえ気がつかないくらいには、桃花は動揺していたのだ。
「……京志郎、さん……あ、おはようございます」
「どないしんたん? なんや、泣きそうな顔しとるけど……もしかして、あいつ来んかったんか?!」
京志郎ははっとしたような表情で周囲を見渡した。あえて、「あいつ」と呼称しているところが京志郎らしいとさえ思った。
「い、いえ、ちゃんと来てました……なんなら……私よりも先に」
「やったら……いや、ええわ。そこは、お姉さんが考えなアカンとこやもんな」
そこであえて京志郎は言葉を切って、それ以上は言わなかった。
少し何か言うべきか悩んだような反応はしたものの、もしかしたら以前に綾乃に言われたことを、京志郎なりに考えていたのかもしれない。
「とりあえず、最後の確認したらあいつのこと、ぐちゃぐちゃにしてええんやな?」
その代わりに、桃花に確かめるように聞いてくる。
本来ならば、そんなこと聞かなくても、きっと分かっているはずなのだ。しかし、あえてそこでたずねると言うことがどういうことなのか、桃花もわかっていた。
今ならば、逃げられるかもしれない。
今まで全部やってきたことも、アルへの感情もすべて捨ててかつての自分みたいに、逃げることができる可能性は、ほんの少しだけでも、残されていたのかもしれない。
「どうか……今日はよろしくお願いします」
だが、今更桃花はその道を選んだりはしなかった。
まっすぐに前を向いて、桃花は京志郎に頭を下げた。
京志郎はそれに頷いてくれる。
「わかってる。あんな胡散臭いやつ、ぐちゃぐちゃにできるん、今日は楽しみにしとったんや」
言葉はどれだけ物騒でも、きっと京志郎も同じ思いなのだ。
「やから、桃花お姉さんは自分がしたいようにしたらええんや。それで、あいつの面倒くさい鼻っ柱へし折ったれや」
京志郎はそういってまた力強く頷いてくれた。
そういうところが、桃花には嬉しかったのだ。
「それで、みんな、もう来ちゃってたんだ、早いね?!」
集合時間の三十分前に、綾乃も来てくれた。
話を聞いて、綾乃は持っていた衣装を取り落としそうなくらい驚いていた。
「綾乃も十分早いよ?」
桃花にしてみれば、自分でも心配しすぎなくらいの時間設定である。だから、そこまで急いでこなくてもいいかなと思い始めていたときに、綾乃がやってきてくれた。ちゃんと衣装も持ってきてくれて、予備の裁縫道具も準備されてあった。
「それでもモデルが一番最初に来るってすごいね」
「……それは、そういう人だから、としか言いようがないんだけど」
桃花はそれには苦笑いした。
それは綾乃の意見が正しい。普通はモデルは一番最後に来てもおかしくないのだ。
スタッフたちが揃ってから、堂々と遅刻ギリギリにやってくるモデルもいるというのに、アルは正反対すぎた。
「何ていうか、そこまでちゃんとしてくれる人なんだって思ったら、少しだけ安心するね」
「まあ……そうだよね」
以前にアルの撮影のために終電ぎりぎりまで仕事をしていると、その仕事ぶりをずっと観察していたのか駅から家まで送ってくれたことがあったと、さすがに言えなかった。
そんなことを言ってしまえば、いらない心配をかけてしまうことになる。
「なんだか……本当にここまできちゃったんだって感じがする」
「そう……」
多分、すごい顔をしているのは自分でも何となく分かってしまっている。
アルがもう一度、「櫻木昴」として活動できなくする。
それが、ストーカーたちからアルを守りたいという思いから来ている行動とは言え、それは同時にアルを潰す行為なのだ。
「うん。だから、京志郎さんにも確かめられちゃったんだ。ちゃんとできるのかって」
「でも、桃花はそれに迷わなかったんでしょう?」
綾乃はそんな迷いさえ受け止めてくれるのだ。
「なんで、わかるの……?」
「そりゃあ、そうしなかったらきっと桃花はいないから。だから、大丈夫だって思っているんだよ」
綾乃は迷うことなくそう言ってくれた。それが、嬉しかった。
「……それでも、怖いよ」
思わず漏れた言葉に、綾乃は静かに目を細めた。
「桃花……」
この仕事に関わる誰よりも、彼を守りたいと思っているのに。
そのために選んだ道が、彼を傷つけるものだなんて。
彼の未来を守るために、彼の過去を断ち切る。だけどそれは、アルにとっての『自分』をも奪う行為かもしれない。
だからこそ、罪悪感が心を縛りつけてくるのだ。
「……大丈夫。桃花はきっと止まれない人だよ。だって、それがわかっていてここまでやったんだから」
綾乃は、優しく微笑みながら桃花の手をぎゅっと握った。
「だから、最後まで、桃花が思うようにやればいいよ」
「……うん」
背中を押してくれる人がいる。
その温もりが、少しだけ気持ちを楽にしてくれる。
そして、撮影が始ろうとしていた。