「そんで? 覚悟はええんやな?」
京志郎は、鏡の前に座るアルの肩越しに問いかけた。
撮影用のメイクルーム。
白いライトに照らされ、数々のコスメやヘアセット用品が並ぶ中、京志郎はメイクアップアーティストとしての仕事に取り掛かる前に、目の前のモデルのアルを見据えていた。
「あなたがそうやって尋ねて来てくれるとは、思いもしませんでしたね」
鏡越しに映るアルの姿は、いつもの通り整った顔立ちで、まるで何事もないかのような穏やかな笑みを浮かべている。
今、こうして椅子に座らされ、京志郎に顔を触られるがままの状態でありながら、その態度はまるで無防備で、むしろ余裕すら感じさせるものだった。今、こうして鏡の前に座らされてしまい、生殺与奪を全て京志郎に握られているにも関わらず、それを特に気にしていないような態度である。
むしろ京志郎に笑いかけてきている。それがまた京志郎の神経を逆なでする。
「は……抜かしとけ。というか、あれ、わざとなんやろ?」
京志郎は、下地を手に取りながら、わざと肩をすくめるような動作を見せた。
「……何の話ですか?」
「桃花お姉さん動揺させるために、朝にわざわざ行ったんやろ」
京志郎の目は鋭かった。メイクアップアーティストとして、モデルの表情の変化には誰よりも敏感な自信がある。そして、朝の桃花の動揺が尋常でなかったことも、アルがその原因であることも、すぐに見抜いていた。
人間は、本来そこにいないはずの人間が突然目の前に現れると、思考が一瞬フリーズする。
ましてや、それが自分にとって特別な存在であればなおさらだ。
アルが朝早くから来ていたのは偶然などではないのだ。
桃花の心を揺さぶるために、あえてそうしたのだと京志郎は確信していた。
「そんなことあるわけないじゃないですか。単に桃花を不安にさせないためにも、早めに行った方がいいと思っただけです」
「どうだか。というか、そんなことほんまにお前が思うとでも?」
それらしい言い訳を並べてきているが、それがアルの本心ではないと見抜いている。
アルは確かに有能なモデルだが、その本心がどこにあるのか、未だに読めない部分がある。
京志郎は何度もアルの写真を見てきたが、目の前の顔がいくら整っていても、その瞳の奥に何を隠しているのかまでは掴み切れなかった。
「そんで、ほんまは?」
「そうですねえ。これも本心なんですけれど。……でも、もしかの時に、何か力になれたらいいなと思ったのは本当ですよ」
「……お前が?」
もっと意地の悪い答えを言ってくるのかと思ったが、それにしてはあまりに純粋な言葉に、思わず京志郎は鏡越しにアルの顔を見つめてしまった。
「ええ。だって、僕は桃花の幸せを願って、自分が『櫻木昴』であることを利用してもらおうと思ったんです」
その言葉を聞いて、京志郎は無意識のうちに筆を握る手を強くしていた。
アルが「櫻木昴」としての名を持つことが、どれだけの影響を与えるかは、京志郎も理解している。
モデルとしての彼は完璧で、どんな衣装も着こなす。
だが、それ以上に彼の「存在そのもの」が、桃花にとって大きな意味を持っていることもわかっている。
京志郎は静かに筆を置いた。
「……お前はほんまに、それでええんか?」
問いかけた声には、かすかに動揺が滲んでいた。
自分を売り出してどれだけ価値があるかを見せつけるはずの、モデルとして生きる者が、自分を「利用してもらおう」と言う。その覚悟の奥にあるものが、どんな思いなのか。京志郎には、イヤでも想像がついた。モデルと一番近いところで生きているからこそだった。
「もちろんですよ」
アルは微笑んだまま、さらりと答える。
「桃花のためになるなら、僕は利用される側でかまわないんです」
その表情は穏やかだった。まるで、すべてを受け入れる覚悟があるかのように。
京志郎はしばらく無言のまま、彼を見つめ続けた。
鏡越しに映るアルの姿は、変わらず完璧なモデルのままだ。
だが、その静かな微笑みの奥には、何か深いものが沈んでいる気がした。
(こいつ……)
京志郎は目を伏せると、小さく息を吐いた。
「……はあ、もうええわ」
そう言って、京志郎は改めてメイクの筆を持ち直す。
どれだけこの男に伝えたところで、伝えたい言葉はきっとのらりくらりと受け流されてしまう。そして何事もなかったかのように、自分は何もかもわかっている。そんな表情を浮かべて笑っているのだろう。そんな男に、何を言ったところできっとこっちの感情を逆なでしてくるだけなのだ。
それに、京志郎は言葉で伝える「プロ」ではないのだ。
「ほな、最高に映える顔にしたるわ。ぐっちゃぐちゃの顔にな」
「期待してますよ、京志郎さん」
アルは軽く目を閉じた。
鏡越しに映る彼の姿は、いつか京志郎が夢見た者。そしてこれから壊していく存在。
美しく、完璧で、誰もが憧れるモデル。
そして、簡単に人間らしい感情で壊れた男。
「はは、言うとけや」
それに向き合った時に走る震えに愉悦さえ浮かべて、京志郎は筆を滑らせた。