アルと京志郎のメイクルームの反対側。
スタジオの奥深く、天井の高い部屋の中で、桃花はベルベットのソファの配置を調整していた。
スタジオには薄暗いランプの光がぼんやりと灯り、壁際にはわざと時代を感じさせるような古びた燭台が並んでいる。アンティーク調の棚には無造作に積まれた書物。空間全体に漂うのは、どこか気怠い退廃的な雰囲気だった。
「うん……もう少し、この角度を調整すれば……」
桃花が微調整しながら呟くと、傍らで手伝っていた右京が淡々と応じた。右京と左京はどちらも京志郎に言われてここに来てくれたらしい。なんとなく、あの時も一緒にいたからもしかしたら、と思ったが、その読みは当たったようだった。
「これ以上動かすと、光の入り方が変わるかなあ。意図した影の落ち方が崩れるけれど、それでもいい?」
しかも二人ともどうやら、京志郎のアシスタントということで機材搬入や雑務なども慣れているようだった。
「そうですね……じゃあ、もう少しこのままにしておきます」
桃花は頷き、ソファを軽く撫でた。深みのある漆黒のベルベット生地が指先に滑らかに馴染む。だが、金を施した手置きも、すでにくすんでしまっていて、かつての荘厳な感じは失われている。
これは、このスタジオのために、知り合いの業者に無理を言って格安で譲ってもらったものである。
もしかしたら、アルのコネを使えばもっといいものが手に入るかもしれなかったが、今回はそれでは意味がないのである。
「ええなあ。こういうのクラブに置くのもいいかもなあ」
その隣で、右京が明るい声を上げる。
壁際に並ぶ燭台の蝋はあえて少し溶かしており、幾重にも垂れた白い滴が、時の積み重ねを象徴するように空間の退廃的な美を際立たせている。
その中だからこそ映えるソファである。
「桃花姉さん、これアルさんのために選んだの?」
「ええ。やっぱり彼には、この雰囲気が一番似合うと思って」
桃花は少し照れたように微笑んだ。
「退廃的な空間の中に、彼の持つ優雅さと儚さを映し出したかったんです。まるで、時を超えて存在するような雰囲気にしたくて……」
右京は目を輝かせて頷いた。
「とはいえ、ここまでセットを作り込むのはすごいですね」
左京が手を止めて言った。彼女は職人気質なところがあるらしく、こういう細部のこだわりには敏感だった。
「普通の撮影なら、背景の雰囲気を整える程度で済ませてもいいのに……桃花ねえさんがここまで徹底的に作り上げるとは思わなかったよ」
「やっぱり、アルには最高の場所を用意したかったんです。前に撮影したんですけれど、その時も中途半端なものだとアルに負けちゃうんですよね」
桃花は素直にそう答えた。
「彼の魅力を最大限に引き出せる空間じゃなきゃ意味がないですから? だから、徹底的にこだわりました」
「へええ、そこまでやるなんてねえ」
左京が楽しそうに微笑んだ。彼女はどうやらわりと職人気質らしく、左京がいろいろとこだわりを見せてくれて、桃花も助かっていた。
「でも、京ちゃんも絶対気に入るよ。桃花姉さんがここまでこだわって作ったって知ったら、すっごく嬉しそうにすると思うんだよね」
「え……?」
桃花は一瞬、目を瞬かせた。
「京志郎さんが?」
「もちろん!」
左京はにこにこと頷いた。
「京ちゃんがここまで気に入るのってめちゃくちゃ珍しいんだよ。そもそもああいう人だからさ。なかなか気に入る人がいないって言うのもあるんだけどね」
「そうだよなあ」
右京もそれに言葉を添えた。
「中百舌鳥さんは、仕事には厳しい人で妥協もしないから……でも、桃花さんの作る世界観には、特に一目置いてるっすよ!」
右京も嬉しそうにうなずいてくれる。
「そ、そんな……大げさですよ」
桃花は少し頬を赤らめながら、照れくさそうに目を逸らした。
「でも、桃花姉さんってさ」
左京が、何気ない口調で言い出す。
「ん?」
桃花は、ソファのクッションを軽く押し、座り心地を最終確認しながら応じた。
「京ちゃんと、結構お似合いなんじゃない?」
「……え?」
突然の言葉に、桃花は動きを止めた。一拍の間の後、自分の耳が聞き間違えたのかと思った。
「あ、あの、どういう意味ですか?」
桃花が聞き返すと、右京がにやりと笑って肩をすくめる。
「いやいや、オレたちずっと見てるっすからね。桃花さんと京志郎さん、なんだかんだ言って息ぴったりっすよ」
「そうそう! ていうか、あの京ちゃんが、桃花姉さんのこと褒めるなんて超珍しいし」
「ま、あれだけ撮影準備にこだわるのも、京志郎さんだからってのもあるんじゃないっすか?」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!」
桃花は顔を真っ赤にしながら両手を振った。
「な、何言ってるんですか、二人とも! そんなわけないです!」
あまりにも突然の話題に、頭が追いつかない。
京志郎とは、何もない、はずだ。しかも京志郎は桃花よりも年下で、面白がっているだけなこともわかっている。そのはずなのだ。そんな桃花を、右京と左京がさらに面白がる。
「わわっ、桃花姉さん、顔赤くなってない?」
「もしかして、図星だったり?」
「ち、違う! そんなわけないじゃないですか!」
顔を両手で覆いながら、桃花は声を張り上げていた。