桃花はそんな彼らの声もほとんど聞こえていなかった。
(すごい……こんな……表情もできるなんて)
今の桃花には目の前に居る、美しくも妖しい魔王のようなアルの姿しか、目に入ってはいなかった。
ただ、ほんの少し表情を変えるだけ、角度を変えるだけで絵になってしまう。
「その角度で止まってください。あ、視線だけこちらに」
たったそれだけの指示で的確に彼は頷いて、桃花の思うように動いてくれる。そして想像以上の表情で、桃花の「作品」になっていくのだ。
それをじっと見つめながら桃花はさらに写真を撮り続ける。
「そうですね。今度はこちらに興味を持ったかのように近づいてきて、それから笑いかけてもらってもいいですか?」
異世界に来た人物に、珍しい客人が来たともてなすかのように、アルには近づいてきてもらう。
どうやって見たところで明らかに人ではない。それなのに、穏やかな笑みを浮かべている。あまりにも魅力的で美しい。だからこそ、警戒心はゆるむ。そして、触れてみたいとさえ思ってしまう。
そんな「作品」を、桃花は撮りたかった。
「こう、ですか?」
優雅にアルが近づいてくる。ファインダー越しにそれを見つめ、そして撮影していく。
ファインダー越しに映るアルの姿に、桃花は息を呑んだ。
美しく、妖しく、どこか儚げで、それでいて狂気じみた熱を帯びた表情。
「……すごい……」
思わず零れた言葉は、桃花自身の感嘆にすぎなかった。
撮影にかける情熱を、彼は確かに感じ取っている。それがただの演技ではなく、むしろ彼自身の奥深くに眠るものを刺激しているのだと、桃花は本能的に理解していた。
「もっと……もっと見せてください……!」
レンズを通して、桃花の声が震える。
アルの唇がわずかに歪む。その笑みは人間的なものではない。まるで、彼が本当に魔王であるかのように、世界の理を超越した存在の余裕を漂わせていた。
「……望むままに」
そう呟くと、アルは静かに腕を上げた。
流れるような仕草。影が揺れる。指先ひとつにさえ、計算された動きがある。しかし、それは単なるポーズではなかった。彼の瞳が、完全に桃花のレンズに吸い込まれていく。そのレンズを通して、きっと彼にしか見えない「観客」に語り掛けているかのような。
魂が震えるほどの、圧倒的な表現力。
(……これが、彼の本当の姿……櫻木昴としての活躍していた、アルの……!)
桃花の指がシャッターを切る。
音が響くたびに、彼はさらなる表情を見せる。緩やかに微笑み、今度は冷たい視線を投げかける。見放すように睨む。
しかし、次の瞬間、まるで捕食者のように近づき、誘い込むような視線を向ける。
それはただの「モデル」ではなかった。
「……いい。すごくいいです……!」
桃花は夢中になり、もう一歩踏み込む。
彼の息遣いが感じられる距離。異形の美貌が、目の前にある。アルの目がゆっくりと細められる。
彼は完全に桃花の求める「魔王」になっていた。
「まだ、足りない?」
挑発的な声。口調さえも変化してしまっている。完全に役になりきっている。
息を飲む桃花。だが、彼女は迷わなかった。
「……もっと、もっとです……こちらを誘って、そして誘惑してください」
その言葉に応えるように、アルの表情が変わる。
今度は、微笑むでもなく、冷たく見下ろすでもなく、狂気的な歓喜だった。
瞳が僅かに揺れる。だが、その目の奥には確かにあるのだ。
破滅への渇望が。
その刹那、シャッターが切られる。まるで今この瞬間、魔王が確かに生きているかのように。
「……最高です」
桃花の喉が震える。
アルは一瞬、桃花をじっと見つめた。
そして、静かに息を吐き、柔らかく微笑んだ。
「それなら……まだ、続けましょうか? 今度はもっと大胆なものを」
その言葉に、桃花の指が再びシャッターへと向かう。
「臨むところです!」
それはまるでアルの狂気が桃花に伝染したかのようだった。
それを聞いた瞬間、突然、アルが動いた。静かに、けれど迷いのない手つきで桃花の腰を引き寄せる。
「これでも?」
「……っ!」
至近距離。呼吸が絡み合うほどの近さ。
普通なら心臓が跳ね上がり、顔が熱を持つ距離。
だが、桃花の目にはファインダー越しの世界しか映っていなかった。
美しい。
異形の輪郭が歪む。人ではない笑みが目の前に広がる。だというのに、恐れではなく、興奮が先にきた。これが表現したかった世界なのだと感じる。はっきりと理解できる。
「もっと……もっとです……!」
声が震えている。
それが恐怖ではなく、昂ぶりによるものだと、自分でも分かっていた。
アルも楽しそうに微笑む。
いつもよりも、ずっと深く、優雅に、けれど底知れぬ気配を孕んだ笑み。
桃花はカメラを握る手に力を込める。
熱がこもる視線を向けたまま、彼の肩に手を置き、その顔へとさらに近づいた。触れるほどの距離で、彼の異形を撮る。
魔王に抱かれたまま、息を弾ませながらシャッターを切り続ける。
「……いい……すごくいい……」
うっとりとした声が漏れる。すでに、興奮を隠しきれていない。何もかもをかなぐり捨てて、「作品」を撮ることだけに没頭したその姿。
アルはそんな桃花を見下ろしながら、ゆっくりと顎を傾けた。
「……君は、怖くないの?」
甘く、囁くような声。だが桃花は気づかない。それどころか彼女は、ただ笑っていた。
「怖い? 何をですか?」
恐怖。そんなもの、どこにもなかった。目の前にあるのは、桃花の中にある最高の「作品」だ。
異形の美しさを、この手で撮りきるまでは手を止めることなど許されない。それだけが脳を支配している。
その瞬間、アルの瞳が妖しく細められた。
「だったら、こういうのはどう?」
ソファにそっと導かれる。そのまま桃花も膝の上に乗せられて、そしてじっと見つめられる。
「ええ、綺麗ですね。そのまま、こちらに笑いかけて。すべてを癒すような笑顔を浮かべて、こちらを誘惑してください」
「わかりました……ふふ、こんな感じですか?」
そっと表情を歪められる。
口角が持ち上がる。美しい笑顔なのに、どこか人ではないような禍々しさが存在している。半分だけ歪んだ輪郭と異形の姿。
それは人が手を伸ばしてはいけないもの。人が求めてはいけないもの。
「……ああ……」
それに桃花はうっとりと感嘆の息を吐く。そしてまた夢中でシャッターを切るのだ。