アルの手が、そっと桃花の背に添えられる。
密着した距離。温もりが伝わる。それでも、桃花はカメラを手放さない。
むしろ、この距離だからこそ、さらに引き込まれるようにシャッターを切る。ファインダー越しに見つめる彼を一秒でも逃したくないのだ。
「……そのまま……っ」
彼女の声はわずかに震えていた。
それは恐怖ではなく、興奮。アルの唇がゆるく歪む。
人ならざる笑み。人を惑わせるために作られたかのような表情。
「……本当に、怖くないんだね」
低く囁くような声が、耳のすぐ近くで響く。
かすかに息がかかる距離。
なのに、桃花はファインダー越しの世界にしか意識がなかった。
異形の美しさを、もっと捉えたい。この瞬間を、焼き付けたい。その興奮が、カメラ越しのアルにも伝わってくるかのような高揚感。
「おねがい……もう少し、私の方に……」
導かれるように、アルはさらに顔を近づける。
「こんな感じ?」
視線が絡まる。
カメラのレンズ越しではなく、直接、瞳を覗き込む距離。
それでも、桃花は手を止めない。むしろ、唇がふっと綻ぶ。
「……いい、すごくいいです……っ」
アルがふっと笑った。
どこか試すような、興味深げな笑み。それはいつもの桃花ではない。だからこそ、アルも面白がっているのだろう。
「……君は、本当に面白いね」
そして、次の瞬間、アルの指が、桃花の顎をそっとすくい上げた。
そのまま、彼女の顔を僅かに傾ける。
視線を絡めながら、さらに距離を縮める。
ほんの数センチの、もう、逃げられない距離にまで顔を近づけてやる。
「……これでも?」
低く囁かれる。まるで試すように。
誘うようにして、アルは笑いかけてくるのだ。それはまるでその周囲にいる者すべてを魅了するようなすさまじい笑みだった。
それなのに、桃花は笑った。
「……もっと、です……」
そんなものさえ、彼女にとっては自らの作品でしかないのだろう。
それはまるで恋人の睦言のようにさえ見える。
「こんなに、近くなっても?」
「……ええ……もっと……」
狂気にも似た熱が、二人の間に満ちていく。
シャッター音が、そのすべてを刻みつけるように響く。
アルが微笑む。まるで、彼女の求める「魔王」そのもののように。
そして、そっと、彼女の髪に指を絡めた。
もう、逃げられない。
けれど、桃花は最初から、逃げるつもりなどなかった。それだけは確かだった。
「そう、だったら」
「え……?!」
その瞬間だった。「魔王」が口づける。小さな音をたてて、唇同士がぶつかって、桃花は目を見開く。
「ん、んん?!」
シャッター音も、心臓の鼓動さえも、一瞬、何もかもが遠のく。
ただ、熱を帯びた唇の感触だけが、現実としてそこにあった。
「な、ん……?!」
桃花の瞳が大きく揺れる。アルの顔がすぐ目の前にある。異形の美貌が、恐ろしいほど近い。
(……え?)
理解が追いつかない。
撮影に没頭しすぎて、どこまでが演出で、どこからが現実なのか、境界が曖昧になっていた。
だが、今、はっきりとわかる。
これは現実なのだ、ということが。
ゆっくりと、彼の唇が離れる。柔らかく、けれど確かにそこにあった熱が、余韻として残る。
アルは微笑んでいた。
「……ようやく、戻ってきましたか?」
低く、囁くような声。その言葉に、桃花はようやく呼吸を取り戻した。
「あ、あの……?」
何が起こったのか、頭が追いつかない。ただ、確かに自分の唇に触れた感触が残っている。熱が頬にまで広がる。
(ちがう……こんなはずじゃなかった……!)
ずっとファインダー越しの世界に浸っていた。
アルの演技に、異形の美しさに、すべてを囚われ、カメラを通してしか彼を見ていなかった。けれど、今、ダイレクトに感じる彼の温度が、その幻想を打ち砕いた。
「もしかして……気づいてなかったんです? こんなに傍にいたのに?」
くすくすと、アルが笑う。その表情は、まるで獲物をからかう捕食者のようだった。
「……っ!」
桃花は反射的に後ずさる。
けれど、アルの手が背に回ったまま、逃がさない。
「ダメだよ、「私」にそんな顔しちゃ」
耳元に囁かれ、背筋がぞくりとする。どうしようもなく、体温が上がっていく。
(まずい……これは……)
ようやく、意識が撮影から切り離された。
今ここにいるのは、「異形の王子様」ではない。
アル自身なのだ。
その事実に、急激に血の気が引いた。
「……嘘、でしょ……?」
小さく震える声が漏れる。それを聞いたアルが、まるで興味深そうに目を細めた。
「何が?」
涼しげな声で、まるで分かっていて聞くように。桃花はぐっと唇を噛んだ。
このまま雰囲気に押し流されてしまえば何を口走ってしまうかわからない。だから、だから……!、と。
「……撮影……終わり、です……!」
逃げるように、カメラを持ち直し、アルの腕を振り払う。
彼は追いかけることなく、ただ微笑んでいた。
「……そう」
どこか楽しげな、けれど満足したような声音で。
まるで、思う通りの反応が得られたかのように。
「い、一度休憩を……! す、すみません!!」
桃花は熱を持った頬を抑えながら、その場を足早に後にした。けれど、胸の奥には、未だに残る唇の感触が、熱として燻っていた。