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第117話 過去の傷

 夜の風は少しだけ冷えてきていたが、桃花の胸の中には、まだアルのぬくもりが静かに灯っていた。駅からの帰り道、並んで歩くアルの足取りはいつも通り穏やかで、彼女の歩調に合わせてくれていた。特別な言葉はもうなかった。ただ、その沈黙すら心地よい。


「じゃあ……ここまでで、大丈夫です」


桃花の家の少し手前、暗がりのある角を曲がる前で彼女は立ち止まった。家の前まで来られるのは、なぜかまだ恥ずかしかった。アルは微笑んで頷いた。


「はい。……また連絡しますね」

「うん、ありがとう……今日は本当に……」


 ありがとう、がもう一度出そうになって、喉の奥で止まった。目を合わせるのが少し照れくさくて、けれど彼の笑みが見たくて、ちらりと横目で見る。その横顔は、やっぱりどこまでも穏やかだった。

桃花は軽く会釈して背を向けた。服の裾を掴む手に力がこもる。自分の中の、小さなざらつきを押し込めるように。


(ちゃんと、今日のこと……考えないと)


 そう思いながら、曲がり角を曲がった、その瞬間だった。何かが視界の端に引っかかった。

 向こう側の電柱のそばに、黒いパーカーを羽織った背の高い人影。


(……誰?)


 ほんの一瞬、歩みが止まる。暗がりの中でも、その雰囲気には見覚えがあった。無造作に染められた茶髪。浅くフードをかぶり、手をポケットに突っ込んだ、あのだらしない立ち姿。

 まるで時間が巻き戻ったように、脳裏に映像が差し込んでくる。

 雲旗慧。


(あ……うそ)


 心臓が、跳ねた。

 もう忘れたはずの輪郭が、夜の灯りに浮かび上がる。視線が合ったわけじゃない。声をかけられたわけでもない。ただ、その存在がそこに「いる」だけで、桃花の内側に眠っていた何かが目を覚ました。


(なんで……なんで、いるの?! ちが、違う……だって、あいつと一緒に、いた部屋、引き払って……もう、ないはずで……もう、だから、いない、はずなのに……なんで……?!)


 息が詰まりそうだった。思考がまとまらない。その場から逃げるように、桃花は足早に家のドアの前へ向かった。手が震える。カギを取り出す指先が、もどかしいほどもつれる。

 カチャリ、と音を立ててドアを閉めた瞬間、体中の力が一気に抜けた。そのまま玄関の壁に背中を預けて、滑り落ちるように床に座り込む。


「……っは……っ、は……」


 浅い呼吸を繰り返す。

 見間違いだったかもしれない。似たような誰かだったのかもしれない。

 でも。でも、そうじゃなかったら……?

 あの空気。あの気配。あの、無遠慮な存在感。身体が、それを覚えていた。


(私……まだ……あの人に……)

 感情なんて、もうないと思っていた。

 でも。

 胸がざわついて、震えが止まらなかった。怒りでも、悲しみでもなく、もっと曖昧で、もっと根深いもの。トラウマ、と呼ぶには生々しすぎる、感情の名残。浮気相手との見たくもない写真を、何食わぬ顔で見せてきた夜。「写真なんて誰でも撮れるだろ」「重たい女」と言われたあの言葉。唇を噛み締めても泣かないと決めた、あの別れの日。

 忘れていたはずの痛みが、再び傷口をなぞるように現れた。

 桃花は、静かに膝を抱えた。


(こんなふうに、なりたくなかった……)


 アルといた帰り道まで、あんなに暖かかったのに。なのに、心の中で、何かがひどく冷たく凍っていくのを感じる。その冷たさは、自分でも手に負えないものだった。

 目の前に差し出されたアルの優しさと、まだ癒えていなかった過去の傷。


(私、まだ……立ち止まってるのかな)

 頬に、気づけば一粒、涙が伝っていた。何が悲しかったのか。何が苦しかったのか。

 それすら、わからない。ただ、言葉がこぼれる。


「……こわい……」

 小さく、ぽつりと漏らした自分の声が、夜の静寂に沈んでいった。


 そんな状態でも、睡眠という行為は偉大だと思う。翌朝。窓の外には、ぼんやりとした朝の光が差し込んでいた。カーテン越しの柔らかな明るさが、部屋の空気をほんの少しだけ温かくする。それでも、桃花はまだベッドの中で丸くなっていた。

 まぶたを開くと、視界に飛び込んでくるのは天井の白い模様だけ。まるで、昨日のことを何もなかったかのように塗りつぶしてくれるような、静かな朝だった。


(あれが……夢だったら、どれだけ楽だったろう)


 目を閉じる。けれど、昨夜の光景は鮮明に思い出せた。あの電柱の下、パーカー姿の人影。確信はない。けれど、あの気配は、雲旗慧その人だった気がする。たとえ顔をはっきりと見ていなくても、身体が覚えていた。心の深い場所で拒絶していたものが、すぐに反応してしまった。

 胸の奥に残る重さを、桃花はそっと押さえた。

 けれど、それでも自分は今はそんな風に嫌だと言える立場ではない。


「今日も、行かなきゃ」


 そっと布団をめくり、身体を起こす。冷えた床の感触が、やけに現実的だった。ゆっくりと洗面台に立ち、水で顔を洗う。頬に触れた冷たい水が、眠りの残滓と、心のざわつきを少しずつ洗い流していくような気がした。鏡の中の自分と目が合う。

 瞳の奥は、まだどこか曇っていた。だが、あの時は違う。泣いているだけじゃなくて、立っている。


(準備をして……会社に行く。それで、今日一日を、始める)


 意識的に深呼吸をして、いつも通りに髪を整え、化粧をして、身支度を整えていく。手を動かすことで、心も少しずつ引き戻されていく。服を着替えて、カバンを肩に掛けた瞬間、全身の重心がようやく「今日」に馴染んだ気がした。


(あの人に、支配されたくない)


 まだ、心のどこかでは怯えている。けれど、それでも、もう一度立ち上がるのは自分自身だ。アルの前で微笑んだ時間を、恐怖に上書きされたくなかった。

 足元に視線を落とし、玄関で深く息を吸う。

 ドアを開けると、朝の空気が顔に触れた。ひんやりとしていたが、昨夜のような冷たさではなかった。太陽が、雲の隙間から覗いている。通りには子どもたちの元気な声や、自転車の音、遠くを走る車のエンジン音。日常が流れていた。その中に自分ももう一度、足を踏み入れる。


(大丈夫。私は、もう前に進んでる。だから、アルを受け入れることもできたんだから。だから、もう……あんなやつのことを思い出していつまでも嘆いているばかりじゃいられない。そんなことは最初からわかっているはずなんだから)


 そう自分に言い聞かせながら、桃花は一歩ずつ歩き始めた。きっと今日は、何かをちゃんと始められる日だ。

 重たい記憶を、すべて背負ってでも、前へ進むための、今日。

 そうやって自覚していないと、すぐに崩れ落ちてしまいそうだった。今すぐにアルにすべてを打ち明けてしまったら、きっともっと楽になれたのかもしれない。そんな誘惑にさえ駆り立てられたとしても、桃花はもう足を止めるわけにはいかなかったのである。


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