出勤するのは少しだけ緊張していた。
デスクにバッグを置いて、深呼吸ひとつ。覚悟を整えてから、編集長の席の方を見やる。すると、ちょうどこちらを振り返った飯田編集長と目が合った。
「ああ、来たね。ちょっといいかな」
声はいつもと同じ低く落ち着いたものだったが、どこか桃花の感情を伺っているのはわかっていた。桃花にどう考えているのか聞きたいのだろう。桃花は無言で頷き、編集長のデスクの向かい側へ腰を下ろす。資料を整える手を止めて、飯田編集長が目を上げた。穏やかな笑顔を浮かべているのが、余計に何か言いたげなことはわかっている。
「……昨日の件、考えたかい?」
「はい」
短く切り出された言葉に、桃花はこくりと小さくうなずいた。
胸の奥にまだ少しだけ残るざらつきを、しっかりと抱えたまま、視線を逸らさずに言う。
「……撮ります、KEYを」
その一言に、編集長のまなざしがわずかに深まる。静かに息を吸い、慎重な声音で問い直す。
「……本当に、大丈夫かな? KEYのことは……私は、無理にとは言わない。彼の名前を出したときの君の顔を見れば、どれだけのことがあったか、察するくらいのことはできるつもりだよ」
その言葉に、桃花は一瞬、胸が詰まりそうになった。本当はそんなことを言えるはずがないのだ。KEYとのことと仕事は別。そう考えているのに、心はすぐに動揺する。そんな桃花をもしかしたら飯田編集長も見抜いているのかもしれない。
けれど、桃花はすぐに表情を緩めて、小さく微笑む。
「ありがとうございます。でも……もう、逃げたくないんです。どんなに過去が痛くても、自分が決めた夢まで背を向けたくないから」
編集長は数秒、無言のまま桃花の顔を見つめた。その目に、ただの上司と部下を超えた、ひとつの尊敬がにじんでいるのがわかった。
「……そうか。それなら、わかった。こちらから正式に、撮影の調整に入っておくよ。事務所には、君が快諾したと伝える」
「お願いします」
返事をした瞬間、肩からひとつ、小さな重みが抜けた気がした。過去と向き合うことに怖さがないわけではない。それでも、向き合わなければ「今」を守れないと、昨日の夜に身をもって知った。
編集長は一度資料に視線を戻したが、ふとまた顔を上げる。
「……それと、もうひとつ。君にはもうひとつ別の撮影依頼が来ていたよね。凛くん……アルくんの弟。彼の写真も、先方から正式に契約書が届いてる。こっちは大丈夫かな?」
その言葉に、桃花は思わずふっと笑った。
きっとあの子のことだ。すぐに手をまわしてくれたに違いない。そうでなくてはこんなに早くこんな話が進むとは思えない。
(そういえば、凛くんってあんまり撮影には積極的じゃないような……あれだけ人気なら、普通写真集とか何冊か出しているはずだし)
そんなことを思いながら桃花はうなずく。
「ええ、そっちはむしろ楽しみです。あの、凛くんはすごくいい顔をしていたから……撮れるのが、嬉しいです」
その笑顔は、さっきの返事とは違っていた。
仕事の選り好みをしてはいけないとわかっていながらも、やはりモチベーションが異なるのは自覚している。彼と話をしてみた感想や、モデルとしての資質はやはりアル譲りのものがある。
彼ならきっといい「作品」になってくれる。その確信。カメラマンとしての芯から湧き上がるような、そんな自分の「撮りたい」があった。
編集長もまた、その表情を見て、ようやく肩の力を少し抜いたようだった。
「うん……その顔を見ると、安心する。やっぱり、君には君の撮るべき被写体がちゃんと見えているんだな。なら、信じよう……そうだね」
「飯田編集長?」
そこでなぜか飯田編集長が動きを止めた。
何かおかしなことでもあるのだろうか。もちろん、大物二人ではあるが、この業界ならフォトグラファーの指名はよくあることだ。中にはそのフォトグラファーにしか撮られたくない、とはっきりと主張してくる大物モデルまでいるのである。
だから、これもよくある話。
そんな風に飯田編集長なら言ってくると思ったのだが。飯田編集長はゆっくりと息を吸って、それからしみじみと何かを思い返すような口調で言った。
「両方、うまくいくといいね」
「……はい。ちゃんと、自分の仕事として向き合います」
それがどれほど難しいのか、桃花にだってわかっている。
(でも、アルの写真集だって作ることができた……それが、本当にアルが最初に作ろうとしたものではなかったとしても……でも、今できることをちゃんとアルに向き合った)
今でも目を閉じても思い浮かべられる。
アルの温度を、その真っ直ぐな目を、そして写真に込めてきたすべての瞬間を裏切りたくない。その想いだけが、今の自分を支えていた。
「わかった。それじゃあ、話は通しておくよ。KEYの事務所にも、凛くんの撮影スケジュールも、こちらで調整を始めておく。何かあればすぐ言ってくれるかな?」
「はい。ありがとうございます」
そう返しながら、ぎゅっと拳を握りこんだ。拳がわずかに震えるのなんて、絶対に知られたくなかったのだ。