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第119話 覚悟は決まった

 編集長とのやりとりが終わった。

自分のデスクに戻った桃花は、肩の力を抜くようにして椅子に沈み込んだ。ふう、と小さく息をつく。カチカチとキーボードを叩く音や電話で誰かが話をする音を聞こえる。何かもめている声が聞こえる。もしかしたら何かあったのかもしれない。

その空気の中で、桃花の胸の奥だけが、どこかざわついていているせいで、どれも上手く聞こえてこない。


(……また忙しくなったなあ)


 それは悪いことではなかった。むしろ、望んできたことのはずだった。アルの写真集が思いもよらない成功を収め、凛という新たな被写体に出えた。だが、KEYの再来はどうしようもないほどに影を落としている。どれも自分が避けずに進もうとした先にあった結果だ。


(……凛くんの方、どうしようかな)


 そんなことを思いながら、無意識にデスクの隅に置いたスケジュール帳に視線を落とす。

手元のメモには、「KEY:打ち合わせ要調整」「凛:日程仮調整可」と走り書きされていた。

 KEYはどうなるだろか。やはりそれを考えると、わずかに指先が止まる。

嫌でも予感してしまう。


(あの男、KEYは、こちらの意図や撮り方を無視して自分のペースで進めようとするかもしれない)


過去のことを思い出してみても、なんだか嫌な記憶しかない。


(メジャーデビューするまでは「夢のために、写真を撮ってくれる桃花は最高だ!」とか都合のいいことを言って……その後は、「お前のは「作品」とか言って、なんか押しつけがましくて最悪だ」とか好き勝手言われてたっけ)


 あくまでお互いが対等な姿勢でいられるとは、思えなかった。


(……ちゃんと、打ち合わせしておかないと、後から大変なことになるかもしれない)


 どう見せたいのか。どこまで協力する気があるのか。あらかじめ方向性をすり合わせておかなければ、撮る方も撮られる方も、ただ消耗するだけの撮影になる。

 そういうことがなかったわけではない。それにそんなことをKEYとしてしまえば、きっと桃花は消耗する。

 だからこそ、あえて、できるだけのことをする。そう決めていた。たとえ感情的にならないよう気をつけなければならないとしても。

 仕事として、写真家として、きちんと彼と向き合いたい。それが、自分にできるせめてもの矜持だ。

 そのときだった。

 スマホが、机の上でかすかに震えた。表示された名前に、桃花の肩がふわりとほどける。


(……アル)


 おかしなことに画面に「新着メッセージ」と出ているだけで、どこか安心する自分がいた。思わず唇がゆるむのを止められなかった。


『凛が、今朝すぐに連絡が来たって喜んでいましたよ。写真の件、正式に受けてくれたんですね』


 それだけの、なんてことのない短い一文だった。けれど、読んだ瞬間、桃花の口元に自然と笑いがこぼれた。


「……ああ、そうなんだ……」


 思わずつぶやいてしまう。声に出すと、ちょっとだけ照れくさくなる。けれど、その笑顔は自然に浮かんでいた。あんなにぶっきらぼうで、警戒心の強そうな凛が、「嬉しそうにしていた」なんて、想像しただけでなんだか可笑しかった。


(きっと、素直じゃないんだよね……)


 なんとなくあの態度で察してしまう。

 なんというか、こちらを伺っているのだ。それでもこちらが悪感情を抱けないのは、彼が心底嫌っているわけではない、とどこか伝わってくるからなのだろうか。


(……不思議だな。凛くん、写真が苦手そうだったのに……でも、お兄さんが撮られた相手ならいいとか、いろいろと考えてそうだし……)


 けれど、だからこそ撮りたいと思ったのだ。レンズ越しに彼はきっと綺麗に映えるだろう。凛の持つ影と光。その愁いを帯びながらも幼さが少し滲むその姿。それを作品として、捉えたいと思っている自分がいた。

 ふと、スマホの画面をもう一度見下ろす。メッセージの続きはない。ただ、その一言だけで胸の中が少し温かくなるのを感じた。


 (……うん、ありがとう、アル)


 言葉にはしなかったけれど、心の中でそっとそう呟く。

 彼がいてくれることが、今の自分にとって、どれほど大きな支えになっているか。それを実感していた。


「さて……スケジュール調整だよ、ね」


 再び視線をスケジュール帳に戻し、ページをめくる。手帳の余白に、凛との撮影の候補日を書き込みながら、心の中でふたたび確認する。


(KEYのことは、しっかり準備しよう。だけど……凛くんの撮影は、少しだけ楽しみにしていよう)


 そう思えるだけで、足元の揺らぎが、ほんの少し収まった気がした。

 再び、手元のスマホがふるりと震えた。今度は、編集部のチャットアプリだった。制作部からの原稿チェックの催促メッセージが表示されている。こちらは他の人の仕事ぶりを見られるので、桃花も気合が入る。まだまだ自分の実力が足りないことはわかっていたのだ。


「……こっちもやらなきゃ……」


 現実が戻ってくる。いつもの業務。写真集のせいで、かなりの業務を他の人に協力してもらっている。今度は桃花も自分だけの仕事ではなく、他の人の仕事を行っていかなくてはいけない。

 桃花は背筋を伸ばし、キーボードに手を置いた。

 気持ちを切り替えないと、ここではどうしようもなさそうだった。

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