タイピングのリズムが、ようやく一定になってきたころだった。原稿チェックのコメントを入力しながら、桃花はふと自分の肩がほぐれているのに気づく。頭のどこかにはKEYと凛のことが引っかかったままだったが、それでも手を動かすことで気持ちはある程度切り替えられそうだった。
けれど、そんな感情も不意にかかってきた声で破られた。
「望月くん」
振り返ると、いつの間にか背後に立っていた飯田編集長が、どこか慎重な面持ちでこちらを見下ろしていた。あの表情をしているときは、いい報告ではない。それはなんとなく感じられた。
「少し、時間あるかな」
「……はい」
立ち上がって資料を持ちかけたが、編集長は軽く首を振った。
「デスクでいいよ。長くはならないと思う」
その言葉に少し不安がよぎる。案の定、編集長は手にしたスマートフォンを見下ろしながら、少しだけ渋い顔をした。
「さっき、KEYの事務所から電話があった」
ビリ、と音もなく空気が張りつめる。何が、あったのだろうか。
「……電話、ですか?」
思わず復唱した自分の声が、やや上ずっていたのを桃花も自覚する。
飯田編集長はゆっくりとうなずく。できるだけ事実だけを伝えるように努めているかのように、続けた。
「向こうが、できればすぐにでも君と会いたいとのことだった。こちらとしてはまだ調整が必要だと伝えたんだが……どうやらKEY本人が聞かなくてね」
そこで編集長は小さく息をつき、桃花の目を見てはっきりと言った。
「……明日には、本人がこっちに来るそうだ」
「は……えっ、明日……ですか!?」
反射的に声が跳ねた。慌てて周囲を見回すが、幸い大きく注目を集めるほどではなかった。しかし、動揺は明らかに表情に出ていたに違いない。
「本人が……来る、って……急に」
「驚くのも無理はないね」
言葉の順序すら危うい自分が、我ながら情けなかった。けれど、明日という距離感があまりに急で、思考がその現実に追いついていなかった。
編集長は、苦笑というよりも、やれやれといったような表情を浮かべて言った。
「なんでも、KEYの強い希望で、らしいよ」
その強いという語に、嫌でも過去の記憶がにじむ。
「……また、自分のペースで……」
呟いた声に、編集長が少しだけ眉をひそめた。
「やはり、まだ気持ちの整理が追いつかないなら、私から少し待ってほしいと交渉を……」
「……いえ、大丈夫です」
口が先に動いた。ほんの一瞬、喉の奥にひっかかるような不安があった。それでも、それでも。そう自分に言い聞かせるように、もう一度うなずいた。
「……驚いたのは事実です。でも、来るなら……ちゃんと会います。逃げませんから」
拳を机の上にそっと置いた。力は入っていなかった。むしろ、震えないように、落ち着かせるためにぎゅっと押し付ける。
編集長はしばし桃花の表情を静かに見つめ、やがて小さくうなずいた。
「……わかった。その言葉が聞けて、安心したよ」
穏やかな笑みだった。
ただ、すぐに眉を寄せる。
「だけど、無理はしないこと。会ってみて、やはり難しいと感じたなら、撮影を断ってもいい。それだけは、忘れないでくれ」
ここまで相手方から強い希望をもたれていて、それで断れることなんてそう簡単にできはしない。そんなことはわかっているはずにも関わらず、言ってくるのは編集長なりの優しさなのだろう。
「はい……ありがとうございます」
その言葉に、また少しだけ呼吸が深くなった。
編集長が背を向け、資料を手に戻っていく。その背中を見つめながら、桃花はデスクの前で小さく、けれど確かな息を吐いた。
明日、来る。
明日という言葉が、頭の中で何度も跳ね返る。気持ちの準備は、できていると思っていた。それでも、あまりにも早い現実の訪れに、やはり心は揺れずにはいられなかった。
デスクに戻っても、背中にまだ編集長の言葉が残っているようだった。
(落ち着け……これは個人的な事情なんだから、気にしたら負けなんだから)
意識して、呼吸をゆっくりと整える。
落ち着いているふりは得意になった。そうでなければ、あの時代、あの時間をやり過ごすことなんてできなかった。
深呼吸をひとつ、もうひとつ。
すると、ふと机の上に置いたスマートフォンが視界に入る。さっき見たアルのメッセージのやりとりが、そのまま開かれたままだった。凛のこと、嬉しそうにしていたというあの一文。
(……何事もなかったかのように)
自分にそう言い聞かせながら、桃花はスマホを手に取り、指先をすべらせた。
『凛くんの件、ありがとうございます。おかげで前に進めそうです』
送信ボタンを押す瞬間、ほんの少しだけ迷いがよぎった。でも、迷ったままにしておくよりは、言葉を届ける方がいいだろう。
そんな気がして、結局押した。
すると、返事は、思いのほかすぐに届いた。
『こちらこそ、快く引き受けてくださって嬉しいです。もしよければ、明日、少し会えませんか?』
「……明日?」
思わず呟く。胸の奥にまた「明日」という言葉が刺さる。今度はまったく別の意味で。KEYが来る日。それと同じ日にアルと会う。
果たして、それができるのか。
けれど、ほんの少しでも彼の顔を見られるなら。言葉を交わせるなら。きっと、それだけで心が救われる。そう思えた。
『仕事のあとでなら、大丈夫です』
返事を送ってすぐに、「了解です」と返ってきた。それだけのことなのに、ほんのりと頬がゆるむ。あたたかい風が、内側から吹いてくるようだった。
キーボードの上に手を戻しながら、ふうっと息を吐く。
「……楽しみができたんだし、きっと、大丈夫だよね」
そう思っていないと前にすすめそうになかったのだ。