翌日。午後二時を少し過ぎたころだった。
編集部の片隅で作業をしていた桃花は、扉の向こうで、小さなざわめきが起きたのを感じた。
誰かが慌ただしく立ち上がり、やや声を抑えるように応対している。それに直感的に桃花は感じてしまう。
(……来た)
足音がゆっくりと近づいてくる。自分で決めたことだ。こうして会うと思ったのだ。それでも、胸の奥では冷たい緊張がじわじわと広がっていく。
「応接室、こちらです」
そこでちらりと視線を移すと、派手な髪が目に入った。
(中百舌鳥京志郎さんみたいな……なんというか、遠くからでもわかるような髪型……あれは……)
KEYなのだろうか。
そう考えたが、すぐに自分から動くこともできずに桃花はじっとキーボードをたたいているふりをしていた。
そうしていると、十数分後、編集長から合図があった。
「望月くん、少し頼めるかな。応接室に」
「……はい」
返事の声がほんの少し乾いた。深く息を吸い、編集部の喧騒から距離を取るように歩いていく。応接室のドアを開けると、そこには、派手な男が、無遠慮に脚を組んで座っていた。
(やっぱり京志郎さんって派手だけれど、センスが良かったんだな……)
確かにKEYの姿はビジュアル系だった。
全身を黒とシルバーで固めている。艶のあるレザージャケット。胸元にはゴシック調のアクセサリーが鈍く光る。髪は無造作に巻かれたプラチナブロンドで、目元は濃いアイラインで縁取られている。
彼のようなファッションが好きであれば、それらはみんな好意的に映ったことだろう。
けれど、そのどれもが桃花には虚飾に映った。見た目は派手だが、センスがない。
KEYが「かっこよさ」で自分を武装しているのが、透けて見えた。
「おーい」
声のトーンは妙に軽かった。目が合った瞬間、彼はにやぁと唇を吊り上げる。
その笑みは、あまりに馴染み深い。以前はそれに笑い返せていたはずだ。それなのに今はただただ不快だった。
「なんだよ、まだ写真撮ってたなんてな」
開口一番、それだった。
桃花はほんのわずかに眉を動かしたが、感情は表に出さない。会う前に何度も想定したセリフのひとつだった。そう言ってくるだろうとわかっていた。
「……こんにちは。お待たせしました」
あくまで冷静に、礼儀正しく。桃花は軽く頭を下げて、向かい側のソファに腰を下ろす。その間もKEYの視線は、ずっと桃花を値踏みするように動いていた。
「なんか、びっくりしたわ。てっきり辞めてるかと思ったよ。昔、結構揉めたし」
わざわざ「昔」と強調する言い方。話の主導権を握りたがる口調。
ただ自分の優位を誇示するような空気。
「おかげさまで、いろいろやらせてもらってます」
桃花の声は平坦だった。何も混ぜない。どんな感情も表にしない。
それが彼にとって一番つまらない応答になることを、よくわかっていた。
KEYは、ふん、と鼻を鳴らした。笑みを崩さないまま、わざとらしく身を乗り出してくる。
「で、どう? 俺の写真、撮る気になったってことは……いま、ちゃんと売れてるってこと? それとも、あれか、そろそろ過去の俺に感謝したくなった? だって俺の写真持って売り込んだんだろ?」
刺すような言葉を、冗談めかして放ってくる。それは軽口ではなく、間違いなく試すような響きだった。
過去に自分がどれほど影響を与えていたか、まだ桃花の心に爪痕が残っているか。それを測るような。
(この人は……変わってない。むしろ、悪化してるかもしれない)
そう思いながら、桃花は一瞬だけ彼の目を見返した。そこにあったのは、成功者の余裕というよりは、「見られていたい」という空虚な虚勢だった。
「……過去のことは過去です。今回は、仕事として受けただけです」
静かな声音で言った。何の装飾もない、明瞭な線引き。それは少しだけKEYの笑みにひびを入れたようだった。
「へぇ。そう言うんだ、今は……ふうん?」
それでもKEYは肩をすくめて、ふたたび椅子に深くもたれかかる。だが、さっきよりわずかに脚を組み直す動きがぎこちなかった。
「まあ、いいけどな。どっちにしろ、俺の写真なら売れるだろ。使い方次第でさ。それにお前もなんか有名になったみたいだし?」
その言葉にも、桃花は微動だにしなかった。
何を言われても、振り回されないと決めてきたのだ。過去と向き合うというのは、こういう時間を受け止めることなのだと、覚悟はしていた。
だからこそ、桃花は内心で、冷静に距離を取る。
ここは、仕事の現場。個人的な感情を持ち込む場所じゃない。
「……では、打ち合わせを始めましょうか。事前にイメージされているコンセプトなどがあれば、共有いただけますか?」
事務的な声でそう告げると、KEYは一瞬だけ不満そうに目を細めたが、やがて面倒くさそうにうなずいた。
「はあ、あくまでそういう態度なわけかよ……まあ、いいわ。せっかく来たんだし、話はちゃんとしようぜ」
その声には、少しだけ棘が減っていた。
取り澄ました仮面の奥に、何かを探っているような気配があった。
桃花は視線を手元のノートに落としながら、冷静さを保ったままペンを取る。
「だったら、どういうコンセプトなのかお決まりですか?」
「別に。あの写真集みたいな感じ」
KEYはつまらなさそうに言いながら、肘を背もたれにかけた。気怠げに足を組み直す。無神経な一言。それがあえて煽ってきているのかもしれない。