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第122話 アルとKEY

「……あの写真集……」


 桃花は、一瞬だけペンを止めた。眉は動かさない。

まつ毛の影に感情を沈める。ただ、喉元から上に登ってくる何かが、奥歯を噛み締めて押し留めるような感覚を引き起こす。

 あの写真集。アルとの作品。それは、単なる商業的なヒットでも、有名人とのコラボでもない。ただ、何が何でもアルを救いたいと願っていた。

魂を削って、一枚一枚を刻んだ。凛とした光と、深い影と、痛みと、願いと。そこには、アルの魂を写したものだ。

 綾乃だって無理をして衣装を作ってくれた。京志郎が小道具とスタイリングで限界まで引き出してくれたあの瞬間。

みんなが、それぞれの立場で「本物」を作るために汗を流してくれた、そのすべてが詰まっていた。

 それを、今、目の前のこの男が「売れたから」という理由で、簡単に真似ていいと言う。


(……この人には、あの写真の何ひとつ、届いていなかったんだ)


 胸の奥が、じくじくと痛む。けれど、言い返したところで意味がない。

むしろ、余計な反応を与えたくなかった。

自分の作品を、感情ではなく「誇り」で守りたい。それだけが今の支えだった。


「写真集の方向性は、具体的にどういったコンセプトを希望されていますか?」

「はあ? 聞いてなかったのかよ」


 あえて淡々と、事務的な口調に切り替える。

 KEYはそれにも苛立つ様子を見せながら、頭をかくようにして言った。


「だからさ、売れるやつ。ドラマチックな感じでなんかかっこいい俺様が真ん中にいる的な? お前、そういうの得意だろ? 前は俺のこと、めっちゃ神格化して撮ってたしさ」


 過去の自分への賛美を、事実のように語る姿勢。その自信満々の口調が、皮肉にも空虚に響く。たしかに昔は、彼を「かっこいい」と思っていた。けれど今、同じ言葉を口にすることすら拒絶したい。

 ペンを握る手がじんわりと熱を帯びる。指先に込めた力を意識する。


「では、撮影のロケ地やスタジオ、衣装のイメージなど、いくつか候補を出していただけますか?」

「はあ? どうせそっちで決めるんだろ? 俺は映るだけ。メイクもカメラもお前が好きにすればいいよ。ただ、ちゃんと映えるやつで頼むな」


 この男に任せても、まともなビジュアルが上がってこないことはすでにわかっていた。だから、桃花は必要最低限のやりとりを終えたあと、撮影の日程に話を進める。


「では、撮影日は一か月後で仮押さえして、予備日をその翌週に。詳細は改めてチームと共有いたします」

「え、どの日……ああ、おっけぇ。俺、その日空けとくわ。……ってか、あの写真集の撮ったやつってさ」


 不意に、KEYの声色が変わった。何かを試すように、表情に笑みを浮かべながら、舌を出すような口調で続ける。


「……あの男、どこで引っかけたの? 見た目はまあまあだったけど、意外と落としやすかったとか? あの感じ、ちょっと女に慣れてなさそうだし?」


 それがアルのことだと理解してしまった。


 (……限界)


 呼吸が浅くなった。胸がつかえる。目の前が少しだけ暗くなった気がした。ペンを置いた指がわずかに震え、それを抑えるために膝の上で両手を組む。言い返したい。怒鳴りたい。全否定したい。

 けれど、その瞬間、柔らかい声が割って入った。


「雲旗さん?」


 振り向くと、飯田編集長がドア口に立っていた。気配を消していたのか、まるで神業のようなタイミングだった。


「さっき制作の確認が入ってますよ。そちらの事務所側とも、いくつか確認事項がありますから。そちらの方に改めて伺うよ。あまり進めすぎて、スケジュールが狂うのは困るだろう?」

「え、あ、ああ……別にいいけど?」


 KEYは少し戸惑ったように立ち上がりながら、ちらりと桃花の方を見る。そこにあるのは、つまらなそうな興味本位の視線だけだった。


「じゃあ、また連絡ちょうだい。今度の撮影、楽しみにしてるからさ」


 言い捨てるようにそう言って、彼は編集長に促されて部屋を出て行った。

 残された応接室には、静寂が戻る。


「……ぜんぜん、変わってない」


 桃花は大きく、ゆっくりと息を吐いた。肺の奥に張り詰めていた緊張が、ほんの少しだけ緩んでいく。

 口には出さなかったけれど、心の中でそっと呟いた。


 (……ありがとうございます、編集長)


 その言葉が、自分の芯をかろうじて繋ぎとめてくれたようだった。





 夕暮れ前、空が茜色に染まり始めたころ。

 桃花は帰宅準備を終えて、すぐに会社を出た。

 そのすべてを払い落とすように、風が吹いた。柔らかく涼しい夏の終わりの風。鎖がきぃと鳴る音に導かれるように視線をやると、そこにアルの姿があった。

 驚くほどに綺麗なその顔は、やはり「作品」として美しい。

 風にそよぐ髪。少しだけ空を見上げていた彼が、桃花に気づくと微笑む。


「こんばんは、桃花」


 その声に、思わず構図を考えそうになった頭を切り替える。


「あ、こんばんは。……待たせちゃいました?」

「いいえ。むしろこちらが呼んだので……」


 アルは、ふと一拍置いて、まっすぐに彼女の目を見る。そして、ゆっくりと一歩、距離を詰めた。


「今日は……ありがとうございます。凛もすごく喜んでました。ちゃんと兄さんと同じように撮ってもらえるって」


 その言葉に、桃花は思わず息を飲んだ。


「そっか……よかった……」


 わずかに微笑みながら返すと、アルはその様子をじっと見つめる。

 何か観察される気分になる。アルの勘は鋭い。というか、何か見透かされているような気分になる。


「……何か、ありましたか?」


 その問いに、桃花の心臓が一度、跳ねた。


(どうして……この人には、すぐにバレる)


 ぎくりと胸の奥が痛む。だけど、まだ言葉にはしたくない。口をついて出そうになる感情の数々を、なんとか誤魔化すように笑った。


「……別に。ちょっと疲れただけです。いろいろ、立て込んでて、それでですかね?」


 苦し紛れの言葉。それでも、アルはそれ以上何も言わず、そっと彼女の隣に並んだ。少しだけ肩が触れそうな距離。それが、なぜか一番ほっとする。


(このまま、もう少し……この時間が続けばいいのに)


 そう思った、その時だった。


「へえ。なんだ、予想通りいたんだ?」


 その声に、反射的に肩がびくりと跳ねた。

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