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第123話 あなたとは違う

 振り返ると、街灯の陰からゆっくりと歩み寄ってくるひときわ目立つ人影。プラチナブロンドの髪に、黒とシルバーのジャケット。昼間見たあの姿が、夕暮れの中でも嫌なほど鮮やかだった。

 KEY。


「……なんで、ここに」


 思わず漏れた桃花の声は、震えを押し殺していた。


「そりゃあ、さ。気になるじゃん? 誰と組んで、あんな写真集撮ったのかって。やっぱそういう関係に持ち込むほうが得だよなあ?」


 待っていたのだろうか。

 あの夜と同じように、桃花の姿を見て、追いかけてきた?

 そんな懸念が胸の奥に広がる。

 KEYはニヤニヤと香水の匂いをまき散らしながら、アルと桃花を見つめる。


「ふうん? 好きそうな顔してるじゃん。なんていうか、こいつこういう男好きだよなあ?」

「……あなたは?」


 アルは笑顔のまま、KEYの質問には答えずに問いかけた。


「あ? 知らねえの? 『深淵の扉』のさ、KEYっていえば、ビジュアル系好きなら大体知ってるし……ああ、ラジオとかの歌番組出てんだけど?」


 KEYはにや、と嫌な笑みを浮かべてアルに告げる。しかし。


「……わかりませんね」


 アルの口元が、ほんのわずかに笑った。

 それは相手を嘲るでもなく、ただ事実を述べただけのような、曇りのない笑みだった。それは静かな拒絶。

 KEYの顔が、目に見えてこわばった。


「は?」

「存じ上げません。ですが、そういう方はたくさんいらっしゃるので、気にされることではないかと」


 さらりと続けたその声に、KEYの笑みが不自然に広がる。明らかに面白くなさそうな顔つきのまま、今度は桃花をちらりと見る。


「……おいおい、マジかよ。お前、こんな趣味悪い男に手ぇ出してたの?」


 吐き捨てるような口調だった。

 それが「彼女の男」に向けられた軽口なのか、「かつての自分の代わり」への嫉妬なのか。どちらにせよ、アルを侮辱する言葉であることは明白だった。


「……そんなのっ!」


 桃花の喉奥で、何かがかっと燃え上がる。

 瞬間、言葉を選ぶより先に、一歩踏み出しかけた。何かを言おうと口を開きかけた、けれどその瞬間、KEYは先に口を挟んできた。


「なに? ムキになるなよ。……俺はさ、お前の作品とやらに、もう一回付き合ってやろうって言ってんだよ。それが何? 嬉しいだろ?」


 にやついた口調。下卑た嘲り。

まるで好意を施してやっているとでも言いたげなその姿に、桃花の胃の奥がねじれるような嫌悪が湧き上がった。


(なんで……どうして、この人はいつもこうなんだろう……!!)


 言い返したい。今度こそ、はっきりと拒絶の言葉をぶつけたい。でも、できなかった。

 撮影がある。進行中の案件として、現場を壊すわけにはいかない。せっかくの飯田編集長の信用を、自分の感情で損なうわけにはいかない。

 ぐ、と唇を噛んだ。

 そのときだった。


「桃花」


 隣にいたアルが、静かに片腕を伸ばし、桃花の肩をやわらかく、けれど決然と抱き寄せた。


「……っ」


 反射的に顔を上げた。至近距離にある彼の横顔は、どこまでも静かだった。何も聞かず、何も言わずに。肩を寄せてくれている。そして、笑顔の消えた顔で、KEYにはっきりと宣言する。


「この人は、僕にとって大切な人です。そして、僕を救ってくれた」


 低く落ち着いた声。その言葉には、一切の動揺も虚勢もなかった。


「……は、お前……」


 KEYが何かを言いかけて、しかし言葉を失ったのがわかった。


「……へえ。そっか」


 鼻で笑うように言って、KEYは肩をすくめた。


「ま、いいや。どうせ俺の写真は、お前が撮るしかないんだしさ。せいぜい、そっちの作品ごっことやら、楽しんで? そいつ、俺の使い古しだけどさ」


 吐き捨てるように言って、彼は踵を返す。

 香水の匂いとともに、街灯の奥へとゆっくりと消えていった。


「アル……」


 夕暮れの公園に、あの男の気配が完全に消えたのを確認して、ようやく桃花は小さく呼吸を吐いた。


「……ごめん」


 力なくそう呟くと、アルは何も言わず、ただそのまま優しく彼女の頭を肩に預けさせた。

 それだけで、どれだけ心が救われたか。

 言葉にしようとしても、できなかった。


「あなたが謝ることではないですよ」


 優しく触れる手。その温度が心地いい。

 桃花の身体は自然と力を抜き、彼の肩へと小さく身を預けた。

どこか深く冷えていたものが、じわりと温まっていくような感覚。人の腕の中が、これほど静かなものだということを、アルが教えてくれた。


「……ありがとう」


 それがようやく、口に出せた言葉だった。

 アルはなにも言わず、ただゆっくりと頷いた。


「……怒っていいんですよ、本当は」


 小さな声で、アルが言う。


「僕が同じ立場だったら、きっと我慢なんてできない。あんな人の言葉、聞くに値しないです」


 桃花は首をふる。


「怒ったら、負けだから」

「負けたくない?」

「うん……あの人がどんなふうに私を見ても、どう言ってきても。もう、私の中には入れない。そう思いたいのに……やっぱり、怖い、です」


 肩を寄せたまま、ゆっくりとした呼吸で吐き出す。


「仕事だからって思ってた。割り切って、ちゃんとやり遂げようって。でも、本当はずっと、どこかで身構えてたんです。あの人が、また、何か……壊そうとするんじゃないかって」


 言い終えると同時に、アルの腕に力が込められた。

 それは、否定でもなければ、慰めでもなかった。

 ただそこにいる、という確かな意思の抱擁。

 風が吹いた。アルの髪が頬をかすめる。いい匂いがした。心地よくて、清らかで、汚されていない。


「大丈夫です」


 アルの声は、変わらず穏やかだった。


「僕は、あなたが壊れないように、ここにいます」


 それは、桃花がこの日、最も必要としていた言葉だった。

 胸の奥にしまっていたいくつもの痛みが、少しだけ解ける。鍵が回るように。ひび割れがふさがっていくように。

 桃花はそっと目を閉じた。


「……ありがとう。……私、ちょっと泣きそう」

「泣いてもいいですよ」


 その言葉に、ついくすっと笑ってしまう。

 笑えている。そう気づいたとき、ようやく深く、長く、息を吐くことができた。

 夕暮れが、完全に夜へと変わる。街灯が白く輝き始める。

 桃花は、アルの腕の中で、小さく頷いた。


「……ねえ、アル。もし、私が……ううん。なんでもない」

「言ってください」

「……あなたがいてくれて、ほんとうに良かったって。それだけです」


 アルは、少しだけ驚いたように目を丸くして、そしてゆっくりと、笑った。


「僕も、そう思っています」


 その笑顔が、どこまでもまぶしかった。眩しくて、あたたかかった。

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