振り返ると、街灯の陰からゆっくりと歩み寄ってくるひときわ目立つ人影。プラチナブロンドの髪に、黒とシルバーのジャケット。昼間見たあの姿が、夕暮れの中でも嫌なほど鮮やかだった。
KEY。
「……なんで、ここに」
思わず漏れた桃花の声は、震えを押し殺していた。
「そりゃあ、さ。気になるじゃん? 誰と組んで、あんな写真集撮ったのかって。やっぱそういう関係に持ち込むほうが得だよなあ?」
待っていたのだろうか。
あの夜と同じように、桃花の姿を見て、追いかけてきた?
そんな懸念が胸の奥に広がる。
KEYはニヤニヤと香水の匂いをまき散らしながら、アルと桃花を見つめる。
「ふうん? 好きそうな顔してるじゃん。なんていうか、こいつこういう男好きだよなあ?」
「……あなたは?」
アルは笑顔のまま、KEYの質問には答えずに問いかけた。
「あ? 知らねえの? 『深淵の扉』のさ、KEYっていえば、ビジュアル系好きなら大体知ってるし……ああ、ラジオとかの歌番組出てんだけど?」
KEYはにや、と嫌な笑みを浮かべてアルに告げる。しかし。
「……わかりませんね」
アルの口元が、ほんのわずかに笑った。
それは相手を嘲るでもなく、ただ事実を述べただけのような、曇りのない笑みだった。それは静かな拒絶。
KEYの顔が、目に見えてこわばった。
「は?」
「存じ上げません。ですが、そういう方はたくさんいらっしゃるので、気にされることではないかと」
さらりと続けたその声に、KEYの笑みが不自然に広がる。明らかに面白くなさそうな顔つきのまま、今度は桃花をちらりと見る。
「……おいおい、マジかよ。お前、こんな趣味悪い男に手ぇ出してたの?」
吐き捨てるような口調だった。
それが「彼女の男」に向けられた軽口なのか、「かつての自分の代わり」への嫉妬なのか。どちらにせよ、アルを侮辱する言葉であることは明白だった。
「……そんなのっ!」
桃花の喉奥で、何かがかっと燃え上がる。
瞬間、言葉を選ぶより先に、一歩踏み出しかけた。何かを言おうと口を開きかけた、けれどその瞬間、KEYは先に口を挟んできた。
「なに? ムキになるなよ。……俺はさ、お前の作品とやらに、もう一回付き合ってやろうって言ってんだよ。それが何? 嬉しいだろ?」
にやついた口調。下卑た嘲り。
まるで好意を施してやっているとでも言いたげなその姿に、桃花の胃の奥がねじれるような嫌悪が湧き上がった。
(なんで……どうして、この人はいつもこうなんだろう……!!)
言い返したい。今度こそ、はっきりと拒絶の言葉をぶつけたい。でも、できなかった。
撮影がある。進行中の案件として、現場を壊すわけにはいかない。せっかくの飯田編集長の信用を、自分の感情で損なうわけにはいかない。
ぐ、と唇を噛んだ。
そのときだった。
「桃花」
隣にいたアルが、静かに片腕を伸ばし、桃花の肩をやわらかく、けれど決然と抱き寄せた。
「……っ」
反射的に顔を上げた。至近距離にある彼の横顔は、どこまでも静かだった。何も聞かず、何も言わずに。肩を寄せてくれている。そして、笑顔の消えた顔で、KEYにはっきりと宣言する。
「この人は、僕にとって大切な人です。そして、僕を救ってくれた」
低く落ち着いた声。その言葉には、一切の動揺も虚勢もなかった。
「……は、お前……」
KEYが何かを言いかけて、しかし言葉を失ったのがわかった。
「……へえ。そっか」
鼻で笑うように言って、KEYは肩をすくめた。
「ま、いいや。どうせ俺の写真は、お前が撮るしかないんだしさ。せいぜい、そっちの作品ごっことやら、楽しんで? そいつ、俺の使い古しだけどさ」
吐き捨てるように言って、彼は踵を返す。
香水の匂いとともに、街灯の奥へとゆっくりと消えていった。
「アル……」
夕暮れの公園に、あの男の気配が完全に消えたのを確認して、ようやく桃花は小さく呼吸を吐いた。
「……ごめん」
力なくそう呟くと、アルは何も言わず、ただそのまま優しく彼女の頭を肩に預けさせた。
それだけで、どれだけ心が救われたか。
言葉にしようとしても、できなかった。
「あなたが謝ることではないですよ」
優しく触れる手。その温度が心地いい。
桃花の身体は自然と力を抜き、彼の肩へと小さく身を預けた。
どこか深く冷えていたものが、じわりと温まっていくような感覚。人の腕の中が、これほど静かなものだということを、アルが教えてくれた。
「……ありがとう」
それがようやく、口に出せた言葉だった。
アルはなにも言わず、ただゆっくりと頷いた。
「……怒っていいんですよ、本当は」
小さな声で、アルが言う。
「僕が同じ立場だったら、きっと我慢なんてできない。あんな人の言葉、聞くに値しないです」
桃花は首をふる。
「怒ったら、負けだから」
「負けたくない?」
「うん……あの人がどんなふうに私を見ても、どう言ってきても。もう、私の中には入れない。そう思いたいのに……やっぱり、怖い、です」
肩を寄せたまま、ゆっくりとした呼吸で吐き出す。
「仕事だからって思ってた。割り切って、ちゃんとやり遂げようって。でも、本当はずっと、どこかで身構えてたんです。あの人が、また、何か……壊そうとするんじゃないかって」
言い終えると同時に、アルの腕に力が込められた。
それは、否定でもなければ、慰めでもなかった。
ただそこにいる、という確かな意思の抱擁。
風が吹いた。アルの髪が頬をかすめる。いい匂いがした。心地よくて、清らかで、汚されていない。
「大丈夫です」
アルの声は、変わらず穏やかだった。
「僕は、あなたが壊れないように、ここにいます」
それは、桃花がこの日、最も必要としていた言葉だった。
胸の奥にしまっていたいくつもの痛みが、少しだけ解ける。鍵が回るように。ひび割れがふさがっていくように。
桃花はそっと目を閉じた。
「……ありがとう。……私、ちょっと泣きそう」
「泣いてもいいですよ」
その言葉に、ついくすっと笑ってしまう。
笑えている。そう気づいたとき、ようやく深く、長く、息を吐くことができた。
夕暮れが、完全に夜へと変わる。街灯が白く輝き始める。
桃花は、アルの腕の中で、小さく頷いた。
「……ねえ、アル。もし、私が……ううん。なんでもない」
「言ってください」
「……あなたがいてくれて、ほんとうに良かったって。それだけです」
アルは、少しだけ驚いたように目を丸くして、そしてゆっくりと、笑った。
「僕も、そう思っています」
その笑顔が、どこまでもまぶしかった。眩しくて、あたたかかった。