電車の中は、帰宅時間にしては空いていた。
揺れる車内、隣に立つアルの存在が、ずっと心を安定させてくれていた。無言でも、隣にいてくれるというだけで、こんなにも安心できるものなのだと、桃花は思う。
駅に着き、ホームから地上へ出ると、夜風がやわらかく頬を撫でた。自販機の前で足を止めて、アルが小さな声で「少しだけ」と言って買ったレモンソーダを、ふたりで分ける。
炭酸の泡が喉をくすぐった。それだけでも楽しかった。
「それでは、ここで大丈夫ですか?」
どうやらアルは用事があるらしく、そのまま帰らなくてはいけないらしい。それに桃花はうなずく。
「はい、だいじょうぶです。ありがとうございます」
(今日は……乗り越えられた)
まだ胸の奥はざらついているけれど、確かに前に進んでいる気がした。
買ったレモンソーダも捨てがたい、と思ってしまう。
そんなときだった。
「こんばんはぁ」
突如、柔らかな、けれどどこか不自然に甘い声が耳に届いた。
駅前の柱の影から、ひとりの少女が歩み出てくる。軽やかに、まるでリズムを踏むように。木靴の音を立てて、歩いてくるその姿に、桃花は思わず目を細めた。
見覚えがあった。
以前、ポスターの前で足を止めていた子。
年齢は、桃花よりもずっと若く見える。大学生か、あるいは新社会人くらいだろうか。髪は緩く巻かれ、ピンクがかったカラー。目元は濃いアイメイク、頬にはパウダーのあとがまだらに残り、リボン付きの小さなバッグをぎゅっと抱えるように持っている。
少女は、にこりと笑った。
「ねえ、おかしくないですかぁ?」
くすくすと笑いながら、桃花に顔を寄せてくる。その距離の詰め方が妙に近く、桃花は反射的に半歩、足を引いた。
「……何が、ですか?」
慎重に問うと、少女は笑顔のまま、唇を指で軽く押さえた。
「だって……あのふたり、どっちもと会ってるなんて、ね?」
「……?」
桃花は眉を寄せた。何の話をしているのか、まったくわからなかった。
ふたり? アルと……?
思考が絡まりかけた瞬間、少女はまっすぐに桃花の目を見た。
その目の奥に、妙な光があった。
「だって、昴はもう私のものなのに」
その声は甘やかで、けれど異様に澄んでいた。まるで言葉だけが浮いているような、不安定さ。
少女は、ゆっくりと右手を上げた。
白いペンダントが、胸元にぶら下がっていた。丸い球状のそれは、琥珀ともガラスともつかない透明な材質でできており、内部に何かが封じられているようにも見える。
桃花は、ぞくりと背筋が冷たくなるのを感じた。
(なに……これ)
少女の指が、その球体にそっと触れる。その仕草に、なぜだろうか。
強い「異物感」を覚えた。
空気が、急に薄くなった気がした。何か、理屈ではなく「おかしい」と感じる。
「……あの、失礼ですけど……どなたですか?」
慎重に尋ねると、少女はあくまで無邪気な笑顔のまま、リズムをとるようにスカートの裾をつまんで小さなお辞儀をした。
「私? 私は櫻木昴の運命の人なの……絶対、ぜったいに、ねぇ?」
その言葉が、まるで刃物のように空気を裂いた。
笑っている。けれど、その瞳だけは笑っていなかった。光のないガラス玉のような瞳。
そこに宿る異常な執着と狂気。
(……逃げないと)
直感だった。理屈じゃない。目の前のこの少女は「危険」だと、全身が告げていた。ペンダントのせいだけじゃない。空気の温度が変わった。世界の輪郭がずれていくような違和感に、肌がざわつく。
「……すみません、失礼します」
何かを悟られないよう、できる限り冷静に、声だけは整えて。
けれど、桃花の足はもう動いていた。
小走りで駅のロータリーを抜ける。背後で少女が何か言っていたかもしれないが、耳には入ってこなかった。ただ、気配がついてきている。
(やばいやばいやばい)
駅前の交差点、信号が赤でも、車がいないのを確認して駆け抜ける。スマートフォンに手を伸ばす暇もない。こんなときに限って、カメラバッグがやたらと重く感じる。
(はやく、逃げないと!!)
桃花だって都会で暮らしていて、夜も遅くなることがある。そんな世界で、こういう連中がいなかったわけではない。
無駄なことを言わない。
目をできるだけあわさない。
可能な限りこちらの情報を渡さない。
そういう基本的な対処法はわかっている。そうしてこちらが離れれば、そのまま相手も興味をなくすパターンも多いのだ。
「は……ぁ……だから……もうっ、ひ!?」
振り返る。
いた。
ヒールの足音が、カツン、カツン、と不規則に響いてくる。
顔は笑ったまま。けれど、追いかけてくる速度は異様に速い。細い体なのに、まるで地面に吸い付くように、こちらに向かってくる。
(無理、これは無理っ!!!)
桃花は足を踏み出す方向を変え、裏道へ飛び込んだ。
狭い路地。コンビニの裏手。冷蔵ケースの室外機が唸る音。人の気配はない。あっても助けてくれそうにない。咄嗟に、工事中の囲いの隙間に滑り込んだ。
パイロン、ロープ、資材の積まれた足場。その奥、鉄骨の影に身を寄せる。呼吸が荒い。けれど、できる限り音を殺した。