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第125話 侵食する少女

 足音が近づいてくる。


「もぉ、逃げるとか、ひどくないですかぁ? まだお話したかったのにぃ」


 明るい声。すぐそこにいる。

 柵の向こう、銀色の足場を踏む軽い音。木靴の音。高くて、乾いていて、なぜだか胸の奥が冷たくなる。桃花は息を止めた。汗が、背中を伝う。


「ざんねぇん、逃げられちゃったぁ」


 ふわりとした声。けれど次の瞬間、ガンッ、と何かが資材にぶつかる重たい音がした。

 桃花は、反射的に目を凝らす。資材の隙間から、少女の手が見えた。

 金槌。

 それを、少女は片手でぶら下げている。まるでおもちゃでも持つかのように、ぶんぶんと揺らしながら。それが凶器になることを知っているのだろうか。かわいらしいその服には似合わない。

その、狂気。


(……なに、それ)


 ぞわり、と背筋をつたう嫌悪感。今、ようやく確信した。これは、ただのファンなんかじゃない。執着を通り越した、もっとおかしなもの。


「でも……見つけたもんね。今日ちゃんと、確かめたもん」


 少女は、ひとりでくすくす笑いながら言った。


「昴はやっぱり、私のとこに戻ってきてくれるよね? うん……そのために、邪魔なの、消さなきゃだもん」


 その瞬間、桃花の心臓が止まりそうになった。


(消す?)


 金槌を持って言う言葉じゃない。それは、ただの悪戯や意地悪とは違う、明確な「害意」だ。

 そして、その対象に、自分が含まれている。

 それを桃花は本能で察していた。


「おねぇさん? どこぉ? ……隠れてるのぉ?」


 呼びかけてくる声が、ひどく楽しそうだった。まるで鬼ごっこの延長のように。けれど、片手には金槌。笑顔のまま、探している。

 桃花は動けなかった。下手に物音を立てれば、すぐに見つかる。工事現場の囲いは、一時的なもので、どこにも鍵はない。抜け出すなら、今だ。

 でも、走った先に逃げ場がある保証はない。

 焦りが喉を締めつける。呼吸が浅くなる。


「……出てこないんだぁ。つまんなぁい」


 ぴたりと足音が止まった。

 その静寂が、いちばん恐ろしかった。

 桃花はそっと口元を手で覆い、必死に息を殺した。目を閉じたら、なぜか今にも泣き出しそうだった。怖くて、気持ち悪くて、でもまだ逃げられるかもしれない、という望みだけで、その場にへたり込まないよう必死だった。


「いいよぉ。また今度、探しにいくから」


 少女は、それだけ言って、くるりと背を向けた気配を残して去っていく。

 金槌のぶつかる音が、一度だけ鈍く響いた。

 やがて、足音が遠ざかり、ようやく周囲が本当の静寂を取り戻したとき。

 桃花は、その場に膝をついて、声も出さずに肩を震わせた。


(なに……今の……)


 金槌の感触が、耳の奥に残っていた。

 そして、あの目。

 桃花は心の奥で理解してしまっていた。

 あの少女は、本気だった。

 部屋の鍵をかけたとき、ようやく息をついた。

 灯りをつけたリビングはいつもと同じだったはずなのに、まるで別の場所のように遠く感じた。玄関から一歩も動けず、靴も脱がずにそのまま壁にもたれ込む。

 ひんやりとした床に膝をついて、手が震えているのに気づいた。握っていたスマートフォンを、ようやく意識して見る。

 誰か。誰かと話さなきゃ、と思った。

 指が勝手に動いた。綾乃の名前をタップする。すぐに呼び出し音が鳴った。


『はい、もしもしー? あれ、桃花? どうしたの? こんな時間に』


 明るい、けれどどこか優しさのにじむ声。

 その声を聞いた瞬間、桃花のこらえていたものが崩れた。


「……あのね、綾乃。……ちょっとだけ、いい?」


 かすれた声に、自分で驚いた。喉が張り詰めた膜で覆われているみたいだった。何を言いたいのだろうか。自分でも上手く話せるかわからない。ただ、話さなくては、いけない気がした。


『なに? 大丈夫? 今どこ?』

「……家には、帰ってきた。ちゃんと鍵もかけた。だけど……」


 言葉にしようとしても、うまくつながらない。断片だけが口から零れる。


『なにがあったの?』

「……駅前で……女の子に……」


 桃花は息を整えるように、できる限り事実だけを順序立てて話そうとした。駅前であの少女に遭遇したこと。会話の内容。ペンダント。そして金槌のこと。工事現場でなんとか巻いたことも。全部はうまく話せなかったかもしれない。でも、綾乃は黙って聞いてくれた。

 それがとてもありがたかった。

 そして、話し終わるや否や。


『……桃花、それ、警察行った方がいいんじゃない? 本気で』


 きっぱりとした声だった。

 桃花は、言い淀む。


「……そう、なんだけど……でも、その……あの、さ……」


 言葉が詰まった。自分でも何を躊躇しているのかわからない。怖かった。けれど、それ以上に何かが引っかかる。


「なんて説明したら、いいのかなって。……ただの変な人、って片づけられそうで」


 警察に行けば、「証拠はありますか?」と聞かれる。金槌のことも、自分が見ただけ。脅迫まではされていない。何かされたわけでも、怪我をしたわけでもない。

 だけど、あの「感じ」は、確かにあった。肌が覚えている。鳥肌がたっていて、呼吸も荒くなる。本気で、あれは命の危険を感じていた。

 それを他人に伝えるのは、きっと難しい。


『……でもさ、桃花。あんた、震えてるでしょう。声、わかるよ。何があったかちゃんと伝わるかはわかんないけど、それでも行った方がいい。今のうちに、何か記録だけでも残しておけば、あとできっと違うから』


 綾乃の声は、真剣だった。ふざけていない。叱るでも、責めるでもなく、ただ本気で心配してくれているのが伝わった。

 桃花は、唇を噛む。


「……うん、そうだね。……ちょっと、頭冷やしたら、考える」

『一人でいるのが怖かったら、こっち来る? 明日仕事あるけど、それでも、泊めるよ』


 思わず笑ってしまった。涙がにじむくらいに、うれしかった。

 ここまでしてくれるなんて。


「ありがと。……でも、大丈夫。ほんとに、ちょっとだけ……ちょっとだけ、一人で考える時間ほしくて」

『……わかった。でも、絶対無理しないで。何かあったらすぐ連絡して。ていうか、何もなくても、明日また電話するから』

「うん、ありがとう。ほんとに……ありがと」


 電話を切ったあと、桃花はゆっくりと身体を倒して、ソファにもたれた。

 安全なはずの部屋。それでも、窓を確認して、チェーンロックを閉め直す。その手が、まだ少しだけ震えていた。


(ほんとに……なんだったんだろう、あの子)


 脳裏に、あの無邪気な笑顔が焼きついて離れない。

 そして、少女の言葉。


「昴は、もう私のものなのに」


「昴。それって……櫻木昴……?」


 その名前が、冷たく胸に沈んだ。アルの本名。


(知ってる。あの子、アルの名前を……)


 嫌な予感が、またゆっくりと、じわじわと、心の奥を侵食していく。

 何かが、ただの偶然では終わらない気がした。

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