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第百九十八話 崩壊の指針

 どこまでも青く広がる大海原。そこに黄昏たそがれる三原良二は、波打つ白い水沫に足先を包まれながら思案する。


 韻鏡いんきょう十年、この無駄にもつれた積み木を前にただ漠然と立ち尽くしているだけの自分。


 こうしている間にも新たな単糸が絡まり、状況は悪化している。考えれば考えるほど面倒くさくなっていく盤面は、もはや一周回って考えることそのものを放棄したくなる。


 得てして出た答えは1つ。──どうとでもなれと、そんな自暴自棄である。


 夕日が沈み、新たな日の出に向けて弧を描こうとする赤い薄明を眺めた三原は、踵を返して波打ち際から去ろうとする。


 そんな三原が振り返る先、広大な砂浜海岸にポツンと置かれたデッキチェアがあり、そこに筋骨隆々な男が一人くつろいでいた。


 隈だらけの三原の目が細くなる。


 アロハシャツにサングラスをかけ、まるで夏のバカンスを楽しんでいるかのようなその男は、三原が先程まで見ていた海の先を同じように見つめる。


「──水平線を眺めていても火は見えないわ、まだ時期じゃないもの」


 野太く、しかし妖艶な声色でそう告げる男に、三原は冷めた声で告げる。


「相変わらずのストーカーだな」

「あらやだ! 人のことが言えるのかしら、アナタだって霜楓町こんなところに足を運んでいるじゃない?」


 決して視線を合わせない二人は、互いに対極の方角を向いて言葉を交わす。


「もう帰るつもりだ」

「そう、気を付けて帰りなさい。──あと、そこの売店の焼き鳥、美味しいからオススメよ♪」

「そりゃどうも、買って帰ることにするよ」


 三原はそう返事をし、男の横を通り過ぎるように去っていった。


 ちょうど水平線の先で夕日の輪郭が消えて辺りが暗くなり始める。


 肌寒い風が少しばかり頬を撫で、男の髪がわずかに靡く。しかし、それを気に留めることもない男は、三原が残した泥色の足跡に重ねるように呟いた。


「──シックルは気にしないのね、強い子」


 ※


 早朝、西ヶ崎高校に陽の光が当たる。


 祝日明けから気怠い空気感が漂う。そんないつもの登校日は、ざわめきとうわさ話でもちきりだった。


 前日、ラッセル新聞社によって発行される県内新聞にて1枚丸々を使った大胆な記事に多くの者が目を通す。


【高校生(渡辺真才君)が世界大会・WTDT杯制す!!】


 ふんだんに盛り付けられた誇張表現と、将棋ブームの火付けを目的とするその書き方は、朝の天気予報を見過ごす勢いで県内の者達を釘付けにした。


 なにより、タイトルに載せられている名前がなぜか真才である。


 続く説明でようやく同じ西地区の代表者である天竜一輝と凱旋道場のエースである青薔薇赤利の名が書かれており、真才はまるでその二人を率いたリーダーのように表現されていた。


「はぁ……余計なことを……」


 早朝、久々の登校をする真才はそんな呟きで下を向く。


 ここぞとばかりに持ち上げてくるその文面に、立花徹の真才に対する謝意が透けて見える。


 かつての不正事件で真才の肩を持つことが無かった立花は、県大会での一件を経て真才に対する大きな貸しを作ってしまっていた。


 それが今や金星を超えた逸材。全国に向かう前に寄り道感覚でWTDT杯を制してしまう真才の快挙は、今後の活躍を確約させているも同然である。


 ゆえに、ラッセルの名を持つ立花は何としてでも自身の印象を回復しなければならない。


 ──真才に対しての、自身の印象を、である。


 だが、真才にとってはいい迷惑である。平等に目立つべき代表者の中から一人を抜き出すなど、赤利の師範である沢谷由香里がどう思うか想像に難くない。


 何より、7人のチームで活躍した黄龍戦の時と違って明らかに突出した目立ち方になっている。


 そうなれば、周りから注目されるのは必然で──。


「……」


 やがて学校の正門に差し掛かった真才は、自分に向けられた多くの視線に進む足がおのずと速くなった。


 周りの生徒は真才を見つけるなり、猜疑さいぎと羨望の混じる視線を向ける。


 あれが最近、日の目を浴びている将棋部の二年生か。……そんな視線を背に受ける。


 真才の中に煩わしさに似た何かが心を占める。だが、校舎内に入った真才は無言のまま靴を履き替え、足早に教室へと向かった。


 当然、その道中で声が掛かることはない。


 凡才の気配が残す軌跡を誰も追わない、追えない何かがある。そう本能で感じ取ってしまうほどの雰囲気を漂わせる真才の背に、周りの生徒達は恐怖にも似た冷や汗を浮かべていた。


 ──そんな彼が通り過ぎる真横、同じクラスの陽気な生徒達と駄弁っている一人の男の視線だけが真才の背を追っていた。


 ※


 久しぶりの学校、休日明けの学業はいつだって憂鬱な気分になる。


 頭の中でいつも楽しそうに駒を掴んでいた"彼"はあれ以来見て感じていない。まるで最初からいなかったように、空想の中で盤を挟み座っているのは俺だけだ。


 憂鬱と言えば、もう一つある。


「ねぇ、渡辺が世界大会に出たって本当なの……?」

「本当らしいよ、信じられないよね……」


 ヒソヒソと陰で小話をする女子の声が断片的に耳に入る。


 別に世界で戦ったわけじゃない。アマチュアの中で、それも限られた枠の中で、海外支部に所属する代表のチームと一回戦っただけだ。


 相手は海外最強だったかもしれないが、こちらは日本最強じゃない。俺はまだ全国大会を一度も優勝しちゃいないのだから。


 だが、そんな細かいことは内々の者だけが知るだけで、外野から見れば俺が大層何かを成し遂げた大物に映るのだろう。


 それも、立花徹の煽り文がよく効いている。


「……」


 今までとは別な意味で気まずい。


 承認欲求が満たされるくらいの注目は別に嫌いじゃないが、手のひらを返されるほどの注目は複雑な気分になる。


 特に──。


「えーっ! すごい! 渡辺くん新聞に出てたの!?」


 この女子はついこの前まで俺の陰口を言っていた子だ。それを、クラスの話題の中心になっているからとわざわざ俺に話しかけている。


 そこまでしてクラスの空気について行きたいのだろうか。その瞳の奥に空虚な色を映してまで、興味もない話題に関わりたいのだろうか。


 ……正直なところ、相槌以外の言葉が口から出ない。


 朝のホームルームから授業終わりの放課後まで、こうやって飽きもせず話しかけてくる同じクラスの生徒達に、俺は少しばかりの気怠さを感じる。


 そんな俺の様子を察してか、教室の扉を開けた東城がこちらに向けて助け舟を出してきた。


「真才くん、そろそろ部活が始まっちゃうわよー!」

「あ、うん! ──ごめん、部活あるから」

「あ……」


 俺はカバンを手に持つと、話しかけてきたその女子の横を通り過ぎ教室を出る。


 そして、東城の元まで小走りで駆け寄った。


「人気者は大変ね?」

「あはは、勘弁してよ……」


 東城はくすっと笑いながら、俺の歩調に合わせて並んで歩き出す。


 今は放課後。階段へ続く廊下の窓から夕陽が差し込み、校舎の内側がほんのりと赤く染まっている。


 俺は東城とは反対の窓の方を見て、ガラスに映る東城の死んだ目を確認した。


「そういえば、今日は珍しく休んでたわね」


 突然、東城がそんなことを言う。


 一体誰のことなのかと少しばかり考えて、俺は思い出すように返事をした。


「ああ、後ろの席の……」

「三原良二。──彼、元は北地区の選手だったみたいよ?」


 その言葉に俺は思わず足を止めた。


「……え、選手?」

「そう、上北道場の生徒。れっきとした将棋指しだったみたい」


 それは驚いた。あの無気力そうで、授業中もほとんど寝てばかりの三原がまさか上北道場出身の将棋指しだったとは。


「……知ってた?」

「いやいや、初耳だよ」

「アタシも初耳だったわ、部長がたまたま教えてくれてね」

「そうだったんだ」


 部長である武林先輩が知っているということは、かなり昔に活躍していたということなのだろうか。


 いや、大会に出ていたなら東城や葵も知っているはず。大会に出るほど強くはなかったのか、それとも表立って活躍する前に引退したのか。


 どちらにせよ、今の三原を見る限り将棋にはあまり関心が向いていないように思える。


「思い返せば、いつも眠そうな顔で学校に来ていることくらいしか分からないわね」

「まぁ……色々《・・》と仕事があるんじゃないかな」

「仕事……?」

「あぁ、いや、バイトとかだよ」

「あー……確かにいつも疲れてそうだしね」


 疲れている、確かに三原はいつも疲れた顔をしている。決して狸寝入りでいつも机に突っ伏しているわけではない。


 先日の廃部の一件。東城たちは知らないのだろうが、退部届を偽造した犯人は三原だ。


 俺はそれが善意であることを知っている、だから口外もしていない。三原にどんな事情があってどう動こうとも、その敵意がこちらに向いていないのなら気にしない。


 ただ、それをきっかけに事が動き出してしまうのは我ながら分不相応だ。


 どうか、何事もなく……今はそう願うしかない。


 そんな感じで俺は東城と喋りながら階段を上り、部室の前にたどり着く。いつもなら颯爽と扉を開けて部室に入る東城だったが、何故か扉の前で立ち止まった。


 そして何か思いつめたような顔で数秒沈黙すると、こちらに振り返りもせず話し始める。


「……それで、昨日言ってた合宿の件なんだけど」

「あぁ、霜楓杯だっけ」

「うん、あのね……」


 東城は歯切れの悪い様子で言葉を詰まらせる。そして何かを言いかけ、それを抑えるようにも思えたが、その疑いは振り返った時に意味を為さなくなった。


 俺と目を合わせる東城の顔は、クラスの優等生として誰にでも見せるような冷たい作り笑顔だった。


「──アタシ、出るのやめるわ」



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