第六服 二虎競食(参)
二虎は食みて競う
西高野街道は官道であった東高野街道と違って、発展が速い。商人らが金を出し合って街道を整備した結果、それぞれが堺との結びつきを強め、河内は大和川を境に北と南で経済圏が別れた。
河内国は、北河内の交野郡、茨田郡、讃良郡、中河内の若江郡、河内郡、高安郡、大縣郡が大和川の北岸にあり、南河内の渋川郡、志紀郡、安宿郡、古市郡が南岸に並び、丹比三郡の丹南郡、丹北郡、八上郡がある。そして、奥河内の石川郡、錦部郡と五つの地域に郡が十六もあり、人口が多い。物産も豊かで、野菜や米の宝庫となっている。後の太閤検地では二十四万石とされているが、戦乱の中心地であってこの石高である。高い生産力が伺えた。国力等級は大国、距離等級は近国である。
「北河内はどうしても畠山等に遣るわけにはいかぬ」
「交通の要衝故、我ら細川が抑えるべきですな」
稙国がそういうと、持国も肯首して土器を干した。持国は若いながらも酒豪であり、高国一家の中で最も酒が強い。
「我らも早く初陣を飾りたいものよな」
「虎益兄上は、そろそろでしょう? 私なぞはまだまだ先の話ですよ」
虎益丸と聡達丸は左程歳は離れておらずとも、既に野州家当主である虎益丸と高国の三男である聡達丸では、求められるものが違う。虎益丸には早い初陣が望まれていたし、聡達丸は母が手許から離したがらず、武張ったことを苦手としていた。
高国はこうした家族の会話を聞きながら、河内の国情に思いを馳せた。
河内国に畠山氏が入ったのは畠山修理大夫国清が最初で、この系統はのちに金吾家と呼ばれて畠山氏の嫡流となった。金吾とは執金吾の略で、衛門府の唐名であり、畠山満家・持国が左衛門督であったことに因む。
ただし、畠山国清は足利義詮と対立し、畠山家は弟の紀伊守義深が継ぐ。義深の子・右衛門督基国が鎌倉殿から室町殿の側近となって以後、畠山家は在京するようになり、能登守護に任じられ、紀伊・和泉・河内・能登を治める守護大名として君臨し、細川氏と斯波氏の対立に割って入った。義満によって管領となると、細川氏・斯波氏と並んで三管領と称されるに至る。その後、尾張守満家・左衛門督持国が管領となり幕政で重きを成したが、持国の後継を巡り畠山尾張守政長と畠山上総介義就の子孫が互いに争い、和泉守護を失った。両畠山家は応仁の乱後も分裂したままであり、現在も内紛が続いていた。
応仁の乱の最中に山名金吾入道宗全と細川武蔵守勝元が死去したのち、細川右京大夫政元によって東・西両軍の講和が進められる中、畠山義就は講和に反対し、文明九年九月廿一日、畠山政長討伐のために河内国へ下り諸城を攻略、政長派の守護代遊佐河内守長直を若江城から逐い河内を制圧した。また、義就派の越智弾正忠家栄と古市倫勧坊澄胤らも大和国を制圧、政長派の筒井舜覚坊順尊・箸尾上野介為国・十市播磨守遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。一方、京では義就が河内方面に下向後の十一月十一日、東西両軍の間で講和が成立し、西軍は解散した。文明十四年に幕府の命を受けた管領の畠山政長と細川政元連合軍が義就追討に出陣したが、義就はこれを撃退している。
義就の跡を継いだ畠山弾正少弼基家は明応二年に将軍足利義材と畠山政長を主力とした幕府軍の追討を受けるが、管領細川政元による明応の政変で細川政元と同盟し、逆に畠山政長を自刃に追い込んだ。政長の子・畠山尚順は紀伊に逃れる。幕府方に復帰した基家は惣領となり将軍義晴から偏諱を受け、義豊と名乗りを改めた。
明応六年、総州家家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた畠山尚順が紀伊で挙兵、居城の河内高屋城を尚順に落とされ、義豊は山城へ逃亡。明応八年河内で戦死している。