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第六服 二虎競食(肆)

みてきそ


 義豊の子・畠山上総介義英は細川政元に助力を求め、その後援の元、畠山尾州家との戦いを優勢に進めた。しかし、薬師寺元一の乱が起き、義英を支援した赤沢信濃守朝経――澤蔵軒宗益が放逐されるに及んで、関係に綻びを見せる。畠山尾州家の尚順が和睦を申し入れると、窮していた義英はこれを受け、結果、細川政元と対立、政元に攻められ高屋城を失った。


 義英は永正四年西暦1507年に起きた永正の錯乱直後に、高屋城を奪還する。その後の両細川の乱において、阿波国の細川澄元のむすめを子・太郎義宣の妻に迎えて同盟した。義材――越中にて義尹と改め、復職して義稙と名乗った――を擁する細川右京大夫高国、大内周防権介義興、畠山尾張守稙長に対して抵抗を続けるも、大永二年西暦1522年四月丗日5月15日、義英が歿して、義宣が家督する。


 東軍であった政長流畠山尾州家は在京したままで、応仁の乱の後、山城守護となった畠山政長が管領に就いた。


 強引な段銭徴収と領国化に反撥され、文明十七年西暦1485年に山城国一揆が起こり失脚、畠山政長は山城守護の任を解かれてしまう。それでも、細川政元と対立する義材に重用され、明応二年西暦1493年には、遂に義材による畠山総州家討伐の親征が実行された。


 しかし、その遠征中に細川政元、日野富子により明応の政変が起こり、政長は子・次郎ひさのぶを逃して討死、足利義材は将軍の座を失った。紀伊に逃れた尚順は、義尹義材を擁し周防国から上洛した大内義興や細川高国と結んで船岡山合戦に参戦し、総州家の畠山義英を破る。だが、管領には細川高国、山城の守護職は大内義興が任命された。


 京での活動に専念するため、尚順は領国運営を次郎稙長に預ける。その後、高国と義稙義材が対立すると稙長は高国、尚順は足利義稙に味方した。尚順は紀伊に帰国したが、永正十七年西暦1520年国人衆に叛かれて堺に追放される。これにより、稙長は正式に畠山尾州家当主となった。


 同年二月、父の宿敵である畠山義英に高屋城を包囲され、三月に城を落とされて逃亡したが、五月に高屋城を奪い返し、義英を大和へ追放した。同年六月から十月にかけて、高国と協議の上で大和に介入し、尚順派と義英派に分かれて争っていた筒井良舜坊順興と越智家栄を始めとする大和国人衆を和睦させ、大和への影響を保つ。大永元年西暦1521、尚順と結んだ義英が高屋城を攻撃するも、稙長によって撃退された。尚順は義稙を奉じ淡路において再起を図ったが翌大永二年西暦1522八月十七日に病歿した。


 大永三年西暦1523年には義稙も死去し、前将軍・尚順・義英と敵がいなくなった高国政権は安泰となったが、尚順と義英の和睦で総州家と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌は継続している。


 錦部郡長野にあるおしがた城に、畠山義宣が兵を挙げたのが九月十五日10月12日だった。


 直ちに稙国を送り出した高国は、武田元光に軍催促の書状を出す。義晴には、武田元光に在京して京の警備を願ってほしいと申し出て、書簡を添えていただいた。下命させては元光の反感を買うだけでなんの益もない。


(武田家中は将軍家に対する忠誠心が高い。どんなに離れようと豆州殿が画策しても、家臣共がそうはさせまいよ)


 武田家は重臣らの独立性が強く、特に逸見氏と粟屋氏は大身であり、当主の統制から離れがちである。将軍家への忠誠心が特に高いのは粟屋氏で、武田元光も粟屋氏の抱え込みに躍起であった。逸見氏が叛旗を翻しがちであるのに対し、粟屋氏は現在まで反抗したことはない。それが故に、当主としても無理を強いるのは難しかった。


 高国は一人ほくんだ。これで総州家を排除し、北河内に細川の楔を打ち込めれば重畳。そうでなくとも総州家を追い払えればそれで良し。これで稙長が増長するようなことがあれば、晴宣を使って畠山を内訌させるか、乗っ取ってしまえば良いと考えていた。


 しかし、現実はそうならなかった。





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