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【第百六三節/剣匠と騎士 中】

 バシリカ城周辺、すなわち貴族や騎士のための高級住宅街にも、当然ながら娯楽施設や飲食店は存在する。


 それらは庶民の収入では到底入れないような場所で、仮に財布が厚かったとしても、格式に見合う立ち居振る舞いをしなければ即座に排除されてしまう。


 わけても、一等地の最も目立つ場所に建てられた『横領卿亭』は、その傾向が最も強い店だった。


 高級宿であると同時に飲食店でもあるこの店は、旧時代の終わりに帝国の官吏が構えたとされている。店の名前にはちゃんとした逸話があり、帝国の崩壊に伴う混乱期、初代支配人は様々な伝手つてを活かして物資を集め、それを格安で人々に提供したという。彼の徳を称して、人びとは横領卿の愛称を贈り、今も屋号として残っているのだ。


 出発点こそ安酒場であったものの、時代を経るごとに着々と高級店へと変貌していき、今ではラヴェンナでも屈指の名店とされている。


 そんな店であるからこそ、武弁者であると自認しているギデオンにとっては、いささか気後れする場所だった。気後れしていると自覚しているはずなのに、どうしてか何の変哲もない地味な平服で来てしまうあたり、彼の密かな物臭さが表れている。腰には、これまた華美さとは無縁の、無骨な愛剣を帯びていた。好意的に見れば剣匠の心意気の表れと取れるかもしれないが、ギデオン当人の本音は心細いからであった。


 重厚な扉を押し開けて店内に入ると、優雅な弦楽の調べとともに、様々な料理と酒の匂い、談笑する声、煙草の煙が押し寄せてきた。


 それと同時に、人びとの興味の視線が一斉に突き刺さる。瞬間的に不作法者を見るような厳しい視線を感じたが、それらはすぐに興味へと変わっていた。あのエルシャの剣匠が、ぶらりと入ってきたのだから、当然と言えるかもしれない。


 ギデオンの態度は堂々としていたが、内心では落ち着かなかった。自分でも無意識のうちに、左手が剣の柄尻を摘まんだり撫でたりしている。給仕の青年が晴れやかな笑顔で登場し、「ギデオン卿でいらっしゃいますね?」とたずねてくれなければ、回れ右をしていたかもしれない。


「ああ」


「お連れ様がお待ちです。どうぞ、こちらへ」


 連れられるままに、ギデオンは青年の後を追った。丸テーブルの間をすり抜けて奥に進むと、小さな箱庭のような場所が現れた。注意深く剪定された観賞植物が人工の池の周りに植わっており、それを囲むような形でテーブルが置かれ、客たちが歓談していた。天井はガラスで覆われていて、大燈台の威容と天火の輝きが見えるようになっている。


 給仕が階段を登り、ギデオンを二階のテラスへといざなう。箱庭からテラスを見上げる何人かの視線は、確実にギデオンに向けられていた。ある婦人が穏やかな笑みを浮かべながら会釈し、剣匠もやや引きつった笑顔で軽く頭を下げた。


 案内された部屋は、二階のテラスの突き当りにあった。他の部屋とは明らかに異なる造りの扉を給仕が叩く。手短に用件が伝えられると、中から涼やかな声で「お通ししてくれたまえ」と聞こえてきた。


 ギデオンが部屋に入ると、先に待っていたオーディス・シャティオンが微笑みながら椅子から立ち上がった。


「お久しぶりです、エルシャのギデオン。八年ぶりですね」


「こちらこそ、御呼びいただき光栄です、シャティオン卿」


 差し出された手をギデオンは握り返した。背後で給仕が扉を閉める音が聞こえた。




◇◇◇




 ギデオンが通された部屋は、宿泊のためではなく、会談や会食のために使われる場所だった。さほど広くはない。椅子や食卓、絨毯、壁紙は当然として、銀細工の燭台や食器に至るまで、どれも選び抜かれた品ばかりだ。防音に気を使っているのか、外からの音は抑えられていて、どこか別世界の迷い込んだ感がある。


 食卓には品書きも置かれているが、ギデオンは開く気にはなれなかった。どうせ値段など書かれていないし、記述された名前から内容を想像するのも難しそうだ。かつて闇渡りのシャムガルから教わった格言で「梶は梶取りに」というのがあるが、この場合もそうすべきだな、とギデオンは思った。


 そんな彼の投げやりっぷりを読んだのか、オーディスは手元にあった鈴を鳴らした。瞬く間に給仕が現れ、オーディスは手早く注文を済ませた。


 雑談を切り出すだけの間も置かず、給仕が片手にワインボトル、片手に銀の大皿を携え再登場した。


 流れるような動作でコルクが抜かれ、芳醇な香りを放つ紅玉色の液体がグラスに注がれる。もったいぶるような量なのだが、乾杯にはこれだけで十分だろう。


「では、エルシャとラヴェンナの繁栄を願って」


 オーディスの形式的な音頭に従って、ギデオンはグラスを掲げた。鈴の音よりも澄んだ音が空気を揺らした。


 最初の一口を含み、その匂いと味を存分に堪能してから、ギデオンは切り出した。


「今夜は、こうしてお招きいただき感謝しています。……が、シャティオン卿ともあろう方が、小生に何の御用でしょうか?」


 ギデオンはあえて「小生」という一人称を使った。それはそのまま、相手に対する距離感を示している。絶品のワインを供してくれたことには無論感謝しているが、正直なところ、自分と相手とは再会を喜び合うほど深い間柄ではない。


 もっとも、特別な相手でないかと言えば、そういうわけでもない。何しろギデオンの生涯において、オーディス・シャティオン以上の敵手とぶつかったことは、数える程度しかないからだ。闇渡りのシャムガルは故人であり、また、自分が若く未熟だったからこそ強く感じたところがある。ウルクの大坑窟で戦ったホロフェルネスは厄介な相手だったが、それは秘蹟サクラメントによって付与された天火が面倒だったのであって、彼自身の力量ではない。


(……そうなると、この人が俺にとって最強の敵だったわけか)


 八年前に相対した時も思ったことだが、この穏やかで優雅な物腰の奥には、冷たく鋭い意志が隠されている。不思議なものだな、とギデオンは思った。


「用、と言っても大したものではありません。単純に、けいと話がしたかった。


 ……いや、それは嘘ではありません。ですが白状すると、もう一つ目標がある」


「それは?」


「まあ、おいおい語りましょう。ところで、このホタテと鯛のサラダは絶品ですよ。どちらもなかなか手に入らないものだ」


 オーディスは表情を崩さず、取り皿に白い貝の身とレタス、水菜を取り分ける。海で獲れる食材は非常に貴重なものだ。毒喰わば皿までと言うが、ギデオンはあっさりとこの美味な毒に屈した。




◇◇◇




 実際のところ、剣匠ギデオンは世間から思われているほど、謹厳で真面目なわけではない。


 あくまで本質的には、という話なので、人前では襟を正すし、師としてユディトとカナンを教えもした。常識人として振舞うことは十分に出来る人間なのだ。


 だが一方で、欲望に対しては人並に弱い。特に酒や食べ物が絡むと駄目だった。剣や武術に関することであれば一切譲歩しないが、それとこれとは話が別だ。


 乾杯をしてから三時間ほど経っただろうか。最初はオーディスからの誘いを訝しんでいたギデオンも、酒が回り腹が膨れてくると、どうにも投げやりな気分の方が強くなってくる。そもそも男同士の宴会なのだから、小難しいことなど考えず楽しめば良いじゃないか……ぐらいの勢いだった。


 話の内容は様々だった。話し合ってどうするのだ、というような他愛の無い話もあれば、しんみりと記憶の澱みを浚うような話題もあった。


 ギデオンは、酔って正体を無くす手合いではない。酔いが回るとやや饒舌になり、表情も緩みやすくなる。だが、それは相手が誰であるかによって大きく変わってくる。嫌いな人物と同席させられたら、酔いを理由に逃げるような癖もあった。話が退屈な人間に当たった時など、ひたすら酒杯を重ねてしまう。


 その点、オーディスの話の運び方は非常に洗練されていた。相手を飽きさせず、常に興味を持ちそうな話題を持ち出してくる。互角の対話というより、彼に話させられているような気分になるほどだ。そしてギデオンも、それはそれで悪くないと思っていた。


 だが、宴もたけなわ……という雰囲気になった頃、オーディスが懐に手を伸ばして、一枚の書状を取り出した。


「ところでギデオン卿、今日御呼びした理由は一つではありません」


(来たか……!)


 ズ……ッとワインをすすりながら、ギデオンは全神経を研ぎ澄ませた。

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