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【第百六三節/剣匠と騎士 下】

 ギデオンの視線が、果たし状の文面をなぞっていく。テーブルの向かい側でそれを見ていたオーディスは、剣匠の顔から、いつの間にか酔いが消えていることに気付いた。


 その表情の変化は、ある種の化学反応を思わせるものだった。顔色が変わるのと同時に、ギデオンの帯びる雰囲気が変化し、オーディスはピリピリとした緊張を覚えた。口の中を満たしていた葡萄の味が、今は酷く苦く感じる。


(こうも変わるのか)


 オーディスはグラスをテーブルの上に置いた。この空気の中で、呑気に酒を飲み続けることなど出来ない。指や、腕の筋肉の一部が強張っているように感じる。陳腐な表現かもしれないが、まるで猛獣の檻の中に取り残されたかのような気分だ。


 剣匠ギデオンは理性的な人物だ……全世界の十の煌都には、そのように伝わっている。


 しかし、その評判は半分正しく、半分間違っているのではないか。と、オーディスはそう思う。今感じたことではない。八年前に相対した時、すでにオーディスはギデオンの秘められた本性を感じ取っていた。


 普段は精悍なばかりで、取り立てて目につくところのない青年が、いざ剣術のこととなるとその雰囲気を一変させる。しかし煌都の中にあっては、彼が本気で戦う機会などそうそう巡っては来ない。八年前に自分と相対した時など、その数少ない機会の一つであったのだろう。


 だから誰も、ギデオンの本当の姿を知らず、「小生」というへりくだった一人称に騙されてしまう。


「……怖い顔をする」


 オーディスはそう言った。ギデオンは微笑を浮かべる。魔人の微笑だった。


 十人前の容姿、と評されるギデオンから、名状し難い気迫が滲み出ていた。それは、どこか妖艶さすら感じさせるもので、女性が目にしたら幻惑してしまうかもしれない。


これ・・に勝つ……のは、無理だぞ。イスラ)


 いくらイスラが強くなったといえど、この魔力にも似た気迫を発せられるかと言えば、不可能だ。自分でも到底出来ないし、自分より剣の扱いが上手かったエマヌエルでも無理だろう。誰も追いすがれないからこそ、剣匠ギデオンは当代最高の天才と称されるのだ。


「以前から、男の弟子が欲しいと常々思っていました」


 書面に視線を落としたまま、ギデオンが呟く。


「ユディト様とカナン様では、不足でしたか?」


「不足と言えば、確かにそうですね。小生の教えるべきことなど、ほとんど無かった……真綿が水を吸う如く、あの二人は良く学び、良く覚えてくれた。


 だからこそ、一人くらい跳ねっ返りが欲しいと思ったものです。二人とも素直過ぎる。特に、ユディト。あのは……」


 ギデオンの脳裏に、ふと美しい弟子の姿が浮かんだ。まるで、自分を完璧な人間であるかのように慕ってくれる彼女が、ギデオンにはどうにも面映ゆかった。


(十も歳が離れていれば、俺のような男も大人に見えるのかな)


 それこそ苦笑するしかない。ギデオンは、自分自身の不完全さ、未熟さを誰よりも理解していた。二十八歳という中途半端な歳は、そのまま自分の青臭さを表しているかのようだ。


「贅沢な悩みですね、ギデオン卿。両手に華とはこのことだ」


「小生には遠すぎて手の届かない、高嶺の百合たちでしたよ。その分、あの闇渡りは雑草みたいなものだ。何の遠慮もいらない。どれほど過酷な状況に放り込まれても、傷だらけになって生還する……俺は、そういう男は好きです」


 そう言って、ギデオンは笑いながら酒杯をあおった。


「では……」


「決闘の申し込み、謹んでお受けします。闇渡りにも、そう伝えて下さい」




◇◇◇




 その後しばらく歓談を続けてから、お開きとなった。


 去り際に、ギデオンがオーディスに対して、こんなことを言った。


「シャティオン卿。貴方は、ずいぶん印象が変わりましたね」


「私が?」


 オーディスは目を丸くした。まさかギデオンから、自分の変化について指摘を受けるなど思ってもみなかったからだ。


 その変化というのも、彼自身、おぼろげに気付いている程度で、どこがどう変わったのか説明することは難しい。ヒルデやゴドフロアのような、比較的近しい人からも指摘されていない。ましてやギデオンとは八年ぶりに再会したばかりだ。そんな彼に、何が分かるというのだろう。


「……以前の私は、どんな風でしたか?」


「誤解を恐れずに言うなら、今よりもずっと冷たい人間に見えました。いや、印象というよりも……貴方の振るう剣が、そのように感じたのです」


「私の剣、ですか」


「今まで様々な相手と戦ってきました。どんな戦士であっても、剣には各々の癖やこだわりが現れるものです。小生とてそれは同じこと。ですがあの時……八年前の貴方の剣からは、そういったものがほとんど感じられなかった」


「……」


「我執の無い剣、とでもいいますか。どこまでも合理的で、迷いが無い。言い換えれば、冷徹とさえ感じました」


 ずいぶん失礼な物言いで申し訳ない、とギデオンは謝った。だが、オーディスはギデオンの見識を目の当たりにして、むしろ深く感心していた。


「成程。確かにギデオン卿の仰った通り、私の剣には魂が無い。いや……無かったのかもしれませんね。あの頃の私は、望む物も欲する物も、何一つ持っていなかった。だから、か」


「今は欲しい物がおありですか?」


「あります」


「それこそが、シャティオン卿の変わられた部分でないかと、小生は考えますが」


 オーディスは笑った。


「ギデオン卿。我執を持てば、人は強くなると思いますか?」


「人によりけり、としか答えられません」


「それもそうですね」


 分かり切った質問をしてしまったことが、少し恥ずかしかった。それを誤魔化すように、オーディスはグラスの縁を指でなぞる。


「ただ、我執が強くなり過ぎると、それに呑まれてしまうことがあります。武器を持つ人間がそうなってしまうと、それは非常に危険な状態であります……こんなことは、騎士である貴方に言うべきことではないと思いますが」


「ああ、それなら大丈夫だ」


 椅子に座ったまま、オーディスは軽く首を傾げ微笑を浮かべた。


「私が真実望んでいる物は、どれだけ我執を膨らませても到底手に入りません。だから、それ以外の物を望むことにしたのです。それならば……私の手に負える範囲で、我執を飼いならしておける」




◇◇◇




「我執を飼いならす、か……」


『横領卿亭』を出たギデオンは、そのまま滞在先の屋敷には帰らず、下町の方へと脚を向けた。頭の中では先程オーディスと行った問答がぐるぐると渦巻いている。自分でも意識しないうちに、剣の柄尻を手の平で撫でていた。


 人のことを言えた義理ではないが、オーディスの中にいる我執は、彼自身が想定しているよりずっと大きいのではないか……何の根拠もないが、ギデオンはそう思った。


 ギデオンは、自分自身の我執の正体をしっかりと把握している。イスラからの申し込みを受け入れたのも、その我執がさせたことだ。


 己がどうやら人並以上の剣腕を持っていると気付いたその時から、我執との闘いは始まっていた。そしていまだに決着がつかないでいる。もしかすると、死ぬまで戦い続けなければならないのかもしれない。


(それは、良いことかもしれん……俺にとっても、他の人々にとっても)


 極上の酒を飲んだ後だが、下手に考え事をしてしまったせいで、いささか酔いが覚めてしまった。自分の中の魔を見つめ過ぎないためにも、酒はどうしても必要だった。


「あ、けんしょーだ。おーい、けんしょー!」「けんしょー」


 能天気な声が聞こえた。その方に視線を向けると、イザベルイザベラの姉妹が肩を抱き合いながらゆらゆらと揺れているのが見えた。各々、片手に空になった酒瓶を握っている。まるで新手の夜魔のようだった。


 通行人たちが迷惑そうな表情を浮かべつつ、足早に通り過ぎていく。ギデオンは溜息をついた。


「イザベル……お前がついていながら、この体たらくは何だ」


「私が酔って何が悪いのです?」


 姉のイザベルの口から、ヒックと酒臭い吐息が漏れた。活舌は乱れているくせに、顔色は平素のままだ。


「お前まで酔ってるのか……」


 そういえば、姉の方もしっかり者に見えるだけで、本質的には妹と全く同じ性根の持ち主だということを失念していた。片方が酒を飲み出したら、もう片方も潰れるまで飲む。結果、二人そろって使い物にならなくなるのだ。


「ねーねーけんしょー……あたしら酔い足りないんだけどぉ」「お金を使い切ってしまいましたので」「かーしーてーよー」「お願いします……くぷっ」


「分かった、分かった……ちょうど私も、どこかに入ろうかと思っていたところだ。一杯くらいは奢ってやろう」


 こうでも言わなければ、鬱陶しくて仕方がない。もちろんオーディスの奢りで高い店に入っていたとは言わなかった。もし言ったら、延々と付きまとってくるのがこの二人だ。


「さっすがぁ」「太っ腹」


「下手なおだてはよせ……いいか、ちゃんと歩いて帰るんだぞ。貴様らが酔いつぶれても、担いで帰るつもりは無いと憶えておけよ」


「はーい」「それよりも酒、酒、酒です」「酒! 肴!」「酒」


「……貴様らはとことん、我執に弱いな」


「がしゅーって何? イザベル?」「よくわからないが、きっと大人の食べ物だろう」「なにそれうまそう! 私も食べたい!」


「たぶん君がそれを口にする日は無いだろうな」

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