目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

【第百六四節/勝利条件】

 ラヴェンナの燈台の遮光壁が開き始め、朝一番の光が煌都とその一帯を照らし出す。イスラの視神経はその変化を捉え、彼を眠りの中から引っ張り上げた。


「……ふぅ」


 胸の上に乗っていたサイモンの腕をどかして、むくりと起き上がる。以前は苦情を言っていたが、一向に改善されないため諦めてしまった。


 手ぬぐいや、羊毛で作った歯ブラシを背嚢から引っ張り出し、いびきと体臭の詰まった天幕から這い出る。あくびを漏らしながら、まだ静かな居留地を横切って、炊事場近くの川へと向かった。


 遠くに見えるラヴェンナの街並みには、所々、パンを焼くための白く細い煙が立ち上っている。もうしばらくすれば、朝を告げる鐘が、バシリカ城の鐘楼より打ち鳴らされるだろう。


 小石の転がる川辺に膝をついて、イスラは両手いっぱいに水を掬った。そのまま顔に叩き付け、ごしごしと拭う。何度か繰り返すうちに、冷え切った清水が神経を刺激し、まだ残っていた眠気を洗い流してくれた。ついでに髪の毛にも水を含ませて、寝ている間に乱れた部分を整えていく。最後に、伸びた後ろ髪を紐でまとめる。


(そろそろ切り時かな)


 羊毛製歯ブラシで口の中を磨きながら、そんなことを考えてみる。考えるまでは良いが、ずるずると引き延ばしていたせいで、いつの間にか結構な長さになってしまった。


「おはよう、早いな」


 ごしごしと音を立てながら振り返ると、頭に手を当てたオーディスが歩いてくる。上着も着ず、シャツとズボンのみの姿だ。クラバットどころか髪すら結んでおらず、彼にしてはずいぶん崩れた格好だった。


「二日酔いか?」


 ペッ、と口の中の汚れを吐き捨てる。オーディスはやや力なく「ああ」と答えた。


「ギデオン卿に付き合って、結構飲んでしまってね。弱くはないつもりだったんだが……」


 歳かな、という台詞が出掛かった。それを押し込めるように顔を洗う。


「決闘の件、ギデオン卿に伝えておいた」


「本当か!?」


 口から思わず歯ブラシが飛び出しそうになった。オーディスが苦笑する。


「嘘は言わないさ。承諾してもらえたよ」


「……悪い、世話になった」


「礼を言われるようなことじゃないさ。それに君にとっての苦労はこれから始まるのだからな。正直今になって、認めたことを後悔している」


 イスラが訝し気な表情を浮かべた。間を置くように、オーディスは何度か顔に水を掛けた。


「ギデオン卿は強いぞ、イスラ」


「……」


「到底、君の手に負える相手とは思えない。無様に転がされて、屈辱と無力感に苛まれるのがオチだろう」


「この問答、一昨日もしたよな」


「そうだな」


「あの時は、絶対に勝て! ……とか何とか言ってた癖に。そう言うの、掌返しって言うんじゃないのか?」


「別に挑戦をやめろという意味じゃない。ただ、非常な困難にぶつかるだろうと助言しているだけさ」


 そこで、だ。とオーディスは言葉を区切った。


「私の独断で、いくつか条件をつけておいた」


「条件?」


「勝ち負けに関することさ。


 勝利条件は二種類。まずは元々の書状にあった、どちらか片方の戦闘不能による決着。


 そしてもう一つは、どちらかが全ての武器を喪失すること」


 オーディスの提示した条件を聞いた瞬間、イスラは顔をしかめた。そこに込められた意味に気付かないほど鈍くはない。


「俺に明星ルシフェルを使えって言うのか?」


 超希少鉱石であるオレイカルコスから鍛えられた伐剣、明星ルシフェル


 その斬れ味と頑強さに比肩し得るのは、同じオレイカルコスから鍛造された剣のみだ。優れた使い手が扱えば、相手の剣や防具を当然のように斬り裂いてしまうし、折れることはおろか斬れ味を失うことすら無い。


 それを使えば、第二の条件は実質存在しないようなものだ。対等な勝負と言えなくなってしまう。


 だが、オーディスはイスラの反発など歯牙にもかけなかった。


「むしろ使わずに勝てるとでも思っていたのか? 思い上がるな。いくら明星が秀でた剣とは言え、武器の性能差など、君とギデオン卿の力量差に比べればあって無いようなものだ。たとえ天火を取り込んだ状態であっても、君の劣勢は覆らないだろう」


「…………」


「それに明星を使って負ければ、下手な言い訳をしないで済むだろ? 普通の伐剣だったから負けた、明星ならもっと喰い下がれた……なんて、見苦しい言い訳じゃないか。


 素直に認めろ。君がここまで戦い抜いてこられたのは、あの特別な剣があればこそだ。それも含めて、今の君の力量だよ」


 オーディスは冷徹にそう言い放った。イスラはしばらく顔を伏せていたが、やがて大きく溜息をついて「……分かった」と答えた。


「明星を使う。梟の爪ヤンシュフもだ。持ってるもの、思いつくもの、一つ残らず奴にぶつける。それで良いんだな?」


「それで良い。君の健闘を期待している。あと数日だが、出来る限りの準備をしておくと良い」


 身だしなみを整えたオーディスは、イスラを残して川辺から立ち去った。ラヴェンナの鐘楼から、朝を告げる鐘が鳴り響いた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?