「あまり良い状況とは言えませんね、カナン様」
ラヴェンナに到着してから五日目。カナンはバシリカ城内の談話室で、煌都パルミラの代表であるニカノルと顔を突き合わせていた。
談話室には他の煌都の要人や、ラヴェンナの有力者の姿もちらほらと見かける。皆くつろいで、思い思いのことをしているように見えるが、周囲にあふれる情報を一つも聞き逃すまいと聞き耳を立てている。カナンはニカノルと共に壁際の小さな机を占領していたが、自分たちに向けられる視線にはしっかりと気付いていた。
ニカノルはパルミラを牛耳る商人会議の中で最も癖が無く、それ故に対外交渉なども請け負っている。ここまで難民たちを引き連れてこられたのも、彼の隠れた支援のおかげだった。
そんな恩人ともいえる人間から指摘されると、カナンも言葉を詰まらせるしかなかった。事実、その通りの状況なのだから。
「救征軍の派遣に積極的なのは、我らパルミラとウルクのみという状況です。残り八つの内、大半が様子見の状況とはいえ、それが悪い方向に傾く可能性も当然ある」
「分かっています。私も連日、各煌都の代表たちと交渉していますが……」
「あまり芳しい結果は得られていない」
「……」
ニカノルの言う通りだった。
ここ数日、カナンは難民団の代表として、また救征軍の代表として交渉にあたっていたが、色よい返事をくれる者はほとんどいなかった。かといって完全な拒絶というわけでもなく、「考えておく」という引き延ばしだけを喰らわされる形だ。
交渉を繰り返す中で、カナンは彼らがまだユディトの切り札を知らないのだと確信していた。もしそれを知っているなら、わざわざ自分に対する回答を保留にする意味がない。恐らくユディトは、ごく一部の人間にだけ情報を提供し、「腹案がある」とちらつかせることでカナンとの綱引きの状況を作っている。
もともと、救征軍という政策は博打的な側面が強い。過去に一度失敗しているという事実もある。だが現状を解決する方法がそれ以外に無いために、煌都の首脳たちからは「消極的な肯定」という形で存続を認められてきた。
それがここに来て、難民問題を解決しうる新しい代案が提出された。煌都の政治を預かる者たちが、その正体を見極め、比較したいと思うのはごく当然のことだ。
「何となくですが、姉様……継火手ユディトの政策案の中身は、分かるような気がするんです」
「ほう」
ニカノルは素直に驚いたようだった。
「さすがは、双子の姉妹ですね」
「そういうわけじゃないですよ。論理的に考えて、急進的な政策の代案には、保守的な代案をぶつけてくるのが当然だと思っただけです。
ただ、今の難民を……もっと言えば、煌都という仕組みそのものを取り巻く状況を考えると、従来の保守的な政策だけでは対応しきれないところに来ているのは確かです」
「それに関しては、我々商人会議や、他のパルミラの有力者たちも同じ考えです。あの事件を経験したのは、我々にとって大きな意味がありました」
「ええ。恐らくパルミラで起きたことの検証は、各煌都で行われていると思います。姉も事の顛末を知っているなら、現実にそぐわない保守案など出さないと思うのですが……」
ユディトが優秀な人物であることは、誰にもましてカナンが認めていることだ。自分が夢見がちな理想主義者であるのに対して、とことん現実主義的な見方が出来る人物であることも理解している。
そんな彼女であればこそ、時代遅れな保守案に拘ったりはしないはずだ。
(……でも、そこから先が見えない)
視界の端で、カナンはトランプ遊びに興じている二人の使者を捉えていた。山札から互いに五枚の札を引いて、捨てたり補充したりを繰り返しながら、強い役を作っていく遊びだ。
今の自分とユディトは、まさにあのトランプ遊びと似たようなことをしている。一つ異なっているのは、ユディトからは自分の手札が丸見えだが、自分はユディトの手の内を把握し切れていないことだ。
捨てていく札……すなわち、零れ落ちた情報から、揃っている役を推察することは出来る。だが、それにも限界がある。もとより手の内を知られてしまっているのでは、どうしても後手に回らざるを得ない。
(どこかで、もっと強い札を引くことが出来たら)
そう思うのと同時に、カナンは自分の疲れと、緊張を自覚した。ないものねだりをするのは、自分が弱気になっている証拠だ。
「カナン様。我々は政治家であると同時に商人でもあります。自分の行った投資が失敗するところは、見たくありません」
「分かっています。姉がどう出てくるにせよ、私は自分のやるべきことを貫こうと思います。他の煌都は、まだ日和見を決め込んでいる状態……五日後の演説で、彼らを説得してみせます」
「演説と投票は、バシリカ城内の会議室で行われる。今までのように、民衆の勢いを背景にすることは出来ませんよ」
「……それでも、です」
表情はあくまで冷静そのものだったが、カナンは自分の声が少しだけ震えていることに気付いた。
◇◇◇
「ふぅー…………」
樽風呂に身を沈めたカナンは、夜空を見上げながら深々と息を吐いた。
すでに入浴時間は終わっていて、浴場には彼女以外に誰も居ない。火が落とされて冷たくなっていたので、あらためて自分の天火で温めなおした。
ニカノルと情報交換を交わした後も、カナンは方々を歩き回ってひたすら説得と交渉を続けた。救征軍を派遣することの意義と利益、必要性。それらを、彼女自身の言葉で語ったのだが、やはり直に首を振ってくれる者は皆無だった。
当たり前のことではある。目の前に二つの選択肢がある時に、片方の売り込みだけを鵜呑みにするのは、愚か者のすることだ。そんな人間が煌都の全権を預かって来られるわけがない。
「姉様は、どうして……」
間違いなくユディトは、この状況を狙っていたに違いない。難民団の動きを止められることも、カナンを追い詰められることも、全て織り込み済みだったはずだ。
(私は追い詰められてなんか……)
頭の中でそう呟くが、彼女の理性はすぐにそれを打ち消した。どう考えても、今の状況は
思えば、今までの旅の中で、自分が状況を支配出来たことは一度も無い。
カナンは様々な分野に対して才能を発揮する、いわゆる万能型の人間だが、網羅し切れない分野は当然存在する。あるいは、彼女自身の性格が邪魔をして、思い浮かんだ選択肢を選べないことがある。
例えば戦略という分野がそうだ。いつもカナンは受動的で、状況に振り回されている。今こうして難民を率いていることも、言ってしまえば成り行きに過ぎない。
だが、カナンは自分から主導権を奪いに行くことが出来なかった。出来ないというより、したくないのだ。誰かに先んずるということは、誰かと争うということであり、どこかで他者を傷つけかねない行為である。だから躊躇ってしまい、重要な一歩が踏み出せない。
その点、ユディトは決して躊躇わない。どこまでも現実的で、合理的。カナンにとってユディトは最も近しい肉親であると同時に、最も相対した存在だった。あるいはカナン自身の在り方が、ユディトの在り方を規定してしまったのかもしれない。
破天荒な妹と、優等生の姉。そんな構図の中にユディトを押し込めてしまったのは、自分なのかもしれない。
「いやいや」
カナンは両手で掬った湯で、顔を濡らした。
「姉様は、それでさんざん得してきたでしょ……自分ばっかり、苦労人って顔して……!」
思わず愚痴が漏れていた。
誰も居ないせいなのか、疲れているからなのか。あるいはその両方か。少なくとも、苛立っていることを認めないわけにはいかない。
(私は確かに変かもしれない。でも、そんな私のこと、姉様は何も分かってないんだから!)
「こんな嫌がらせばっかり! ふざけんなバカーっ!!」
じゃぽんっ、と頭の天辺まで湯に浸かる。数秒立って、ぶくぶくと水面に
「
鼻まで湯に浸かった状態で、カナンは口には出せない鬱憤を泡に混ぜて呟く。
「
もう一度、全身を湯の中に沈める。
目をぎゅっとつぶったまま、カナンは膝を丸めた。
(イスラ……私、頑張ってるんですよ)
褒められたいから、認められたいからやっているわけではない。自分の生き方を貫きたいからここまで来た。それが芯にあることは間違いない。
イスラが自分を信頼してくれていることも分かっている。カナンという人間の人格と理想を尊重して、過度な干渉もしなければ、足を引っ張ることもない。どこまでも距離感を大切にしていることが伝わってくる。
そんな付き合い方をしてくれるのは、一緒にこの長い旅路を歩いてきたからなのだろう。アラルト山脈での一件もあるのかもしれない。今の距離感は、まさに旅に出る前のカナンが望んでいたもの。こんな風に苛立つのは、矛盾しているのかもしれない。ただの我儘なのかもしれない。
それでも、こう言ってやりたくなる。
(もっと私を)
両腕で自分の胸を抱き締める。柔らかいな、と思った。
右手の人差し指を噛んでみる。少し強く、噛み痕が残るくらいに。唇の端から泡が零れた。大坑窟でベイベルと戦った時、イスラが首の片側を噛み千切られたことを思い出した。その時の噛み痕は、まだ残っているのだろうか、気になる。
(私に……!)
カナンは我に返った。水面から顔を出し、大きく息を吸い込んだ。指の噛み痕が冷たい空気に触れて、ひりついた。