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【第百六七節/哲学の目覚め】

「また、悩み事のようだねえ」


 うずくまる穢婆えばの口から、そんな言葉が漏れた。背中を覆う腫瘍に天火アトルを注いで治療していたカナンは口元を緩めた。


「分かってしまいますか?」


「お前さんが悩んでいない日なんてあるのかい?」


 長老の意地悪な口ぶりに、他の穢婆たちもクツクツと喉を鳴らした。これにはカナンも苦笑するしかない。


 カナンの蒼い天火がかざされると、膿の染み出ていた腫瘍がいくらか縮んだ。それでも完全に消え去ることは無いし、肉体の奥深くにまで潜り込んだ病魔には到底手が出せない。継火手は自分の身体を完璧に保つことは出来ても、他人のものとなると途端に無力になる。


 なので、一から十まで天火に頼ることは出来ない。


 彼女の傍らには、お湯を溜めた水桶が置いてある。ひとしきり天火を当て終わると、湯を染み込ませた手ぬぐいで患部を拭っていく。エルシャに居た頃、たびたび屋敷を抜け出て救貧院の仕事を手伝っていたが、その時に教わった知恵だ。結局、天火による一時的な治療よりも、継続して身体を清潔にしておくことが最上の予防策となる。


 カナンが難民たちに入浴を徹底させることも、元をたどればその知識に依拠しているのだ。内部で病気の拡大を防ぐとともに、外部に対しても予防や防疫の取り組みをしているという証明になる。可能であれば毎日実施したいのだが、さすがにそれだけの余裕は無かった。


 最後に穢婆の手による軟膏を擦り込み、手早く包帯でくるんでいく。この包帯も、カナンが自分の天火を使っていぶしたものだ。


「お前さんも、よくやるもんだ。あたしらみたいな穢婆にねぇ……」


 黒いローブを被りつつ長老が言う。カナンはさらりと「当然のことです」と答えた。


「それで、今は何で悩んでいるんだい? 知恵は出せないけど、治療してくれている恩がある。聞き役くらいにはなってあげるよ」


「ありがとうございます」


 桶に残った湯で手を洗い、道具一式を片づけていく。片づけを進めながら、カナンは胸中を占めている思いを吐露した。


 ひとしきり状況の説明をすると、返ってきたのは「そりゃあ、あたしが聴いても仕方のない話だねえ」という答えだった。


「お前さんが一番引っかかっていることは何なんだい?」


「……決めきれません。何もかも、です。煌都との交渉が上手くいかないことも、姉様の意図が分からないことも、これからどうなっていくのか、とか……」


 今までも思い通りにいかないことはいくつもあった。常に綱渡りを繰り返してきたし、追い詰められた状況下で限られた選択肢にすがらざるを得ないことも多々あった。だが、それらを乗り越えてここにいる。


 どんな苦境へ追い込まれようと、その先に進めば、また新たな道が開けている。行き当たりばったりと言われたら否定出来ないし、指導者としての力量も大したものではないのかもしれない。それでも人々に、そして自分自身に希望を見せることで、一歩ずつ前進してきたのだ。


 だが、今は目の前に高い壁が聳え立っていて、それを乗り越えられる気がしない。


 もし乗り越えることが出来なければ、今までの旅で築いてきた全てが水泡に帰すこととなる。


「この機会を逃せば……エデンに行く機会は、二度と訪れないかもしれない……」


 その可能性を考えるのが、一番怖かった。目標を失った後、自分はどうやって生きていけば良いのだろう? それに残された難民たちの扱いがどうなるかも分からない。持て余した煌都が強硬策に出る可能性も無いとは言えないのだ。


 穢婆の長老は薬草茶の用意をしつつ、聞き返した。


「お前さんがそこまでしてエデンに行きたがるのは、どうしてなんだい?」


 今までに、他の人間とも何度か行った問答だった。カナンは相手の意図を読み取れないまま、決まりきった返事をする。


「それは……継火手である私にとって、当然の」


「そりゃあ義務感や責任感であって、欲とは言えないね」


 穢婆は鑷子せっしで茶葉を摘まみ、粘土で出来た茶器の中に落としていく。数種類の薬草を入れたところで湯を数滴垂らし、十分に蒸す。


「欲、ですか」


「そう、欲だよ。この世に欲とは無縁の人間なんていやしない。もしいたとしたら、そいつは生きながらにして死んでいるんだ」


「あたしたちのようにね」


 外野から茶々が入り、くぐもった嗤いが外套から漏れる。それを絶つかのように、長老はポッドに熱湯を注ぎこんだ。


「穢婆というのはね……」


 独特な匂いを伴った白い湯気が、二人の間に立ち上った。


「あたしもそうだが、元々、器量良しなほどなりやすいのさ。客を多く取れるからね」


「……危険だとは思われなかったのですか?」


「一口には言えないね。危険だと思っていた部分もあるし、そうでない部分もある。自分は大丈夫だと無意識に信じ込んだりね。身体を売る以外には食っていく方法も無いから、嫌でもやるしかない。


 何より、男に気に入られれば、欲しい物は何でも手に入った。何が欲しいのか良く分かっていないのにね」


 二人分の薬湯を淹れ終わると、長老は片方の茶器をカナンに差し出した。それを受け取る時に、カナンは、長老の視線が自分の日に焼けた肌に触れるのを感じた。


「結局、本当に欲しい物が分からないままドツボに嵌まったのさ」


「……」


 ズズ……と音を立てながら、カナンは薬湯を啜った。いつもの舌を締め付けるような苦味を覚悟していたら、その代わりに奇妙な甘みを感じた。


「お前さんには、本当は強い強い欲があるはずだ。でなきゃ、これだけのことは出来っこないよ。人は、人のために尽くし切ることは出来ない生き物だからねえ」


「……人のために尽くすことは、正義ではないのでしょうか?」


「お前さんは、正義が欲しいのかい?」


「私は正しくあらなければ……」


 穢婆は溜息をついた。賢い娘かと思っていたが、根っこの頑固さは馬鹿の領域に踏み込んでいる。


「いいかい、欲っていうのは身勝手のことを言うのさ」


 先ほどまで湯を沸かしていた火桶を引っ張ってくると、長老はその中に向かって息を吹きかけた。チロチロと燃えていた火が、一瞬強く瞬いた。



「誰の心にも、欲望という名前の火が灯っている。


 それは光を生みもするし、影を作りもする。命を温めることもあれば、命を燃やしてしまうこともある。お前さんが必死になって自分を律しようとすることには、それなりに込み入った事情があるのだろうさ。


 けれど、それはお前さんのじゃないんだよ。


 お前さんの火は、天火だけじゃないんだよ」



 カナンはふと、自分が目の前の火に魅入られていることに気付いた。なまじ自分の蒼炎を見慣れているだけに、こうもまじまじと火本来の輝きを見ることがなかったのだ。


 その金とも赤とも言えない不思議な揺らめきのなかに、確かに人の心と相通ずるものを、カナンは感じた。


「欲望が、火のように心の中で燃えているなら」


 カナンは、自嘲するように唇を吊り上げた。


「私の火は、こんなに綺麗に燃えてはいないと思います」


 それは、彼女が滅多に浮かべることのない表情だった。


「人の心の火は、みんなそんなものさね。お前さんは、自分の中のきたなさから目を背けすぎているのさ。


 それを認めれば、お前さんはもう少し強くなれるんじゃないかね」


「私の……穢さ」


 考えたことが、ないわけではない。


 むしろ他者よりも正しくあろうとするあまり、カナンは自分自身の穢さに蓋をしてきた。誰よりも自分の穢さに対して自覚的と言えるだろう。ただ、見つめようとしないだけで。


 もともと非難されることの少ない生き方をしてきただけに、カナン当人にとって、心の暗部を覗き込むのは恐ろしいことだった。


(でも……)



 それと向き合うべき時が、来たのかもしれない。



「……私には、姉がいるんです」


「そうらしいね」


「その人は……何ていうのかな、私に嫉妬、っていうのとは、ちょっと違うと思うんだけど……たぶん複雑な気持ちを持ってる人なんです。


 でも、それは私も同じで……姉様は、私が欲しいと思う物を、最初から全部持っているんです」


「それは、何なんだい?」


「それは――」




◇◇◇




「……ありがとうございました」


「ますますお前さんが不遇に思えてきたよ。まるで病人みたいだ」


 カナンは苦笑を浮かべながら、茶器に残った薬湯を飲み干した。


「今日は、甘い薬草なんですね」


 何気なく呟く。茶器を受け取ろうとした穢婆の手が、ぴくりと震えたのをカナンは見逃さなかった。


「……ああ、そうだよ」


 だが、穢婆の方ではそれ以上話を続ける気は無いようだった。身体の疲労もあるだろうと思い、カナンは立ち上がった。


 天幕を出て、ぶらぶらと居留地の中を歩く。すでに夕食時を迎えており、人々の平和な慌ただしさが辺りに満ち溢れていた。どこかで買ってきたものを食べたり、自分たちの天幕の前で調理をする者もいる。焚火や料理の匂いを嗅ぎながら、カナンはここで生きる人々のことを思った。


 時々、手持無沙汰に歩くカナンを認めて、挨拶をしてくれる者もいた。夕食をがっついている子供たちが、口周りに食べかすをつけたまま元気よく頭を下げてくれることもあった。


 そんな彼らの囲っている焚火を見て、カナンは先ほどの穢婆とのやり取りを思い出した。


(私の欲望……私の火……)


 カナンは子供たちの傍に近寄ると、膝を曲げて視線を合わせた。確か、肥しを運んで賃金を稼いでいる集団だったと記憶している。一番年上の子は十二歳の少年で、重労働にも関わらず、率先して仕事に励んでいた。


 そういえば、イスラが一人ぼっちになったのも十二歳の頃だったな、と思い出した。


「今日も大変でしたね。疲れてはいませんか?」


 いきなり話しかけられた少年は、どぎまぎしつつ「はい、大丈夫です!」と元気よく答えた。


「無理はしないでくださいね。大変だと思ったら、他の仕事を用意しますから」


「ありがとうございます。でも、この仕事なら金が手に入りますから……」


 カナンの手前、大声で賃金の話をするのは憚られるのかもしれない。少年の声はしりすぼみに小さくなった。


「何に使うんですか?」


「それは……伐剣を買おうと思って」


「剣を……」


 驚いたが、別に不思議な話ではない。伐剣は闇渡りの象徴であり、男性にとってはそれを扱えて一人前という風潮がある。十二歳ともなれば、多少背伸びをしたくなるのだろう。


 もちろん、子供を守る立場にあるカナンとしては複雑な発言だったが、咎めようとも、諫めようとも思わなかった。それがこの少年の望みなのだから。


 他の子供たちにも、欲しいものを色々とたずねてみた。少年と同じように伐剣と答える男の子もいたし、女の子の中には人形を買いたいという子もいれば、読み書きのための道具と本が欲しいという子もいた。


「煌都なら、勉強の出来る女の人が一番えらいんでしょ? だから、あたしも勉強するの!」


「ええ、頑張ってください。今は……どうしてもお金がいるけど、いつかタダで勉強が出来るようにしますから」


 屈んで話をしながら、カナンは思った。


(この子たちも、何かを望んで生きている。とても健康な望みを……)


 既存の社会体制では、彼らからこんな話を聴くことは絶対不可能だった。今、こうして子供たちに生き生きとした表情を宿らせることが出来ただけでも、自分のしてきたことに手ごたえを覚える。


 しかしそれは指導者としての感慨だ。


 彼らと同じような、個人的な望み。自分の中には、明確に言葉に出来る欲望それがある。


 ただ、それが単純に説明出来ないものである点に、カナンは自分らしさを覚えていた。


 そしてそんな自分であるからこそ、哲学を生み出すことが出来るのだろう、と思った。

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