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【第百六八節/零れる女王】

「決闘?」


 全身を包み込むような巨大な腰掛に身を沈めながら、マリオンは不機嫌そうに呟いた。


 本来彼女が座るべきなのは部屋の中心にある執務机なのだが、今はギヌエット大臣が使っている。王族のための椅子に腰を下ろすわけにもいかないため、わざわざ別室から椅子を運ばせて、それに座るという念の入り様だ。


 それでさえ、ギヌエットは恐縮しきった様子で、汗をハンカチで拭きつつ書類を片づけている。


「はい。エルシャのギデオン卿より、ユディト嬢を通じての請願でした。同様の届け出をシャティオン卿からも頂いています」


「ふーん……」


 ユディトの名前が出ると、マリオンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 彼女の傍らには、輪切りにされ、砂糖に漬けられた檸檬レモンの入った瓶が置いてある。宮廷料理人が気を使って用意してくれたもので、結構な贅沢品だ。こればかりでは「いつか飽きるだろう」とマリオンは思っていたが、何故か、どれだけ食べても飽き足りない。


 貴人らしいほっそりとした指を瓶に浸して、また一枚口に運んだ。


「陛下、いかが致しましょうか?」


「別に。どうでもいいわよ」


「はあ……」


 どうでもいいという言葉だけでは、許可して良いのか悪いのか分からない。さすがに投げやり過ぎたと思い、マリオンは訊ねた。


「片方はギデオン卿として、もう片方は誰なの? まさか、またオーディスが戦うの?」


「いえ。請願書によりますと、カナン様の守火手……つまり、例の闇渡りが対戦を申し込んだようです」


「……へぇ?」


 指についた砂糖と蜜を舐めながら、マリオンは身を起こした。彼女の視線を受けたギヌエットは一瞬身を強張らせた。マリオンの表情は、明らかに良からぬことを思いついた顔だった。


「面白いじゃない、それ」


「は……では」


「許可よ、許可するわ。いっそ盛大にやりましょう! 皆に見てもらえるよう・・・・・・・・・・に、ね?」


 見てもらう・・・・・の間に「無様な負けっぷりを」という言外の意図があることを、ギヌエットは正確に読み取った。読み取れたとて、どうすることも出来ない。マリオンがやると言えばやる。それが王政の国家というものだ。


 それに、ギヌエットにしてもイスラに対して特別おもんぱかるようなことはしない。所詮は赤の他人だし、エルシャと難民団の間でのやり取りなら、ラヴェンナが介入しても仕方が無いからだ。


 ただ、あの剣匠と戦わなければならないというのは、それ自体が不幸なことであると思えた。どうして獅子の口に腕を突っ込むような真似をするのか、根っからの文民であり貴族であるギヌエットには、皆目見当もつかなかった。


「ふふ、楽しみが出来たわ」


 再びソファに身を沈めながら、マリオンは歌うように呟いた。そんな顔をするのは、ずいぶん久しぶりのことだと、マリオン自身も気が付かなかった。


「あはは、ねえギヌエット! あいつうっかり死んだりしないかな!?」


 主君が晴れやかな表情を浮かべるのは、臣下としても喜ばしいことだ。しかし内容が内容だけに、ギヌエットは口籠もることしか出来なかった。




◇◇◇




「王手」


 ラヴェンナの燈台がよく見えるテラスで、ユディトはイザベルと将棋を指していた。テーブルには将棋盤と香草茶の茶器の他に、粒の大きな宝石が無造作に転がされている。しゃがみ込んだイザベラが「ほぇー」と声を漏らしながら、しげしげとそれらの宝石を見つめていた。


 特使として派遣されることが決まった時点で、宝石を着ける機会が増えるのは目に見えていたので、エルシャから大量に持ち込んでいた。いささか持て余してもいたので、物欲しそうにしていたイザベルとイザベラに、ユディトの方から賭けを持ち出したのだ。ちょっとした退屈しのぎのつもりだった。


 イザベルが勝てば、詰みまでに討ち取った駒の数だけ宝石を渡すことになっている。ユディトの方からは、特に何も賭けていない。


「対等な賭けは、対等な立場の者同士である時にのみ成立するのよ」


 そう言い切ると、イザベルは憮然とした表情のままドスンと椅子に座り、イザベラは姉の後ろで「やっつけろー!」などとのたまっていた。


 イザベルはむっつりとした顔のまま、強気の手をどんどんと捻じ込んできたが、ユディトはことごとく迎撃してしまった。最初に煽ったのは間違いだったかもしれない、と思った。


「……これじゃ勝負にならないわね」


 双子の姉妹が、いきり立った猫のように「フーッ!」と声を出し抗議する。ユディトは溜息をつきつつ「ギデオンのことよ」と話題を逸らした。


「確か、明後日と言っていたわね」


 欄干に肘をあてて、頬杖をつく。穏やかな風がユディトの前髪を揺らした。


「決闘のことですか?」


 イザベルは唸り声を混ぜながら聞き返す。とりあえず、逃げの一手を打つしかなかった。


「馬鹿なことを許したわね。誰がどれだけ頑張ったって、ギデオンには勝てないわ」


 かく言うユディトも、彼が本気で戦ったところを何度も見たわけではない。八年前にオーディス・シャティオンとの一戦を目の当たりにした時だけだ。


 だが、その一戦だけで全ての証明になってしまうように思えた。戦いが過熱するほどに鋭く強く、速くなっていくその刃を見切れる者など、この世にいないだろう。彼の発していた闘気は、まだ幼かったユディトにさえ感じられるほど強烈なものだった。


 あの時でさえ凄まじい技量だったのに、この八年間、ギデオンが鍛錬を怠った日は一日たりとも存在しない。都外での実戦にも参加して、常に無傷のまま帰って来た。半年前にイスラと斬り結んだ時と、ウルクの密偵を行った時だけが例外だが、それでさえ大した傷は負っていなかった。


 闇渡りのイスラが実力をつけたであろうことは、想像に難くない。彼とカナンの積み重ねてきたものについては、ユディトも一定の理解を示していた。


 だが、背伸びをしているだけの凡人だと自認しているからこそ、分かることもある。ギデオンは天才であり、その強さを突き詰めていくと、理屈だけでは説明しきれない部分に必ず突き当たる。イスラの才能や経験がいかほどのものか知らないが、ギデオンと全く同等の才能があるとも思えないし、凡人の経験だけでは手の届かない高みは確かにあるのだ。


 ユディトは女王の駒を前進させて、守りを固めていた歩兵を薙ぎ倒した。歩兵の脚では女王に追いつけない。


「王手」


 イスラの敗北は、そのままカナンにとっても致命打となるだろう。日和見を決め込んでいる大物たちにとって、この象徴的な一戦は一つの決定材料になるはずだ。それに、同胞の敗北によって難民たちの士気が下がることは目に見えている。妹が外部だけでなく、内部からの支持までも失えば、投票にかけずとも救征軍の計画を潰すことが出来る。


「ふぐぐ……!」


 イザベルが唸り声をあげる。欄干に肘をついたまま、ユディトは再び溜息をついた。彼女は勝利を確信していた。


 その時だった。どこから運ばれてきたのか、急な突風がテラスに吹き付けられた。とはいえ駒が倒れるほどの風ではない。ユディトは煩わし気に前髪をかき分ける。


 だが、駒は倒れずとも、それより小さく軽い宝石は別だった。雫の形に研磨された蒼玉がテーブルの上を滑り、縁から飛び出す。


「わわわっ」


 しゃがみ込んで見ていたイザベラが、咄嗟に腕と上半身を突き出して、零れ落ちたそれを掴み取った。


 同時に彼女の額がテーブルにぶつかり、今度は突風以上の衝撃が将棋の駒を揺らす。布陣していた両軍の兵士たちが音を立てて倒れた。


「痛っい!」「よしよし、大丈夫か」


 涙目の妹の額をさすりながら、イザベラはテーブルに視線を戻した。だが、そこにあったのはぐちゃぐちゃに乱れた盤面と、不愉快そうに眉を寄せているユディトの顔だった。


「これは……分からなくなってしまいましたね」


 ユディトは一層不愉快そうに「ふん」と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。


 王を詰めていた女王が、テラスの床に転がっていた。

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