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【第百六九節/前夜 上】

「くぁー……」


 ペトラはその低い背丈をうんと伸ばしながら、自分の天幕に向かって歩いていた。


 ここ数日、ペトラは非常に忙しい毎日を送っていた。ラヴェンナに登城していることの多いカナンやオーディスに代わって、実質的に難民団の指揮を執っていたからだ。


 実は、ペトラは難民団の構成員の中で上から二番目、オーディスと全く同等の立場にある。受け持っている仕事は彼と異なるが、地位の上では同格だ。


 元々叩き上げの指揮官で、誰に対しても分け隔てなく接するため、厚い支持を受けている。だが当の本人は、自分に対して過分な評価だと思っていた。


「あたしなんて、カナンにひっついてきただけの小物だよ」


 一体、どれだけの相手にそう言いふらしたか、ペトラ自身も記憶していなかった。


 ラヴェンナに到着し、カナンが煌都の代表たちを説得するために動き出したのが七日前。じきに、八日前になろうとしている。


 その短い期間を、ペトラはカナンの代理として過ごしたわけだが、目が回るような忙しさとはまさにこのことだった。パルミラにいたころはもちろん、ラヴェンナに来るまでの道程でこなしてきた仕事が可愛く思えるほどだった。決して楽ではなかったはずなのに、机に噛り付いてひたすら書類を片づける毎日が恋しくなった。


 見回り、意見聴取、仲介、仲裁、交渉その他諸々……。


 頭を使うのはもちろんのこと、思った以上に足を動かさなければならないため、彼女の小さい足は今や鉄のように硬くなってしまっていた。


 そういうわけで、夕食や身辺のことは、旧来の仲間であるオルファに丸投げしていた。


 ところがオルファがいるということは、サイモンもやってくるということで、サイモンがやってくるということはそこが宴会場になるということだ。


 自分の天幕に近付くにつれ、人の集まる気配が強くなっていく。今夜も案の定、サイモンが仲間を引っ張り込んだようだが、いつもとは少し様子が異なっていた。


「さあ張った張った! 片やエルシャの剣匠、当代最強の剣豪だ! 片や我ら難民団の英雄イスラ! こいつを逃したら男じゃねえぞ!」


「英雄だなんて笑わせやがる。ギデオンに賭けるぞ!」


「こっちもギデオンだ」


 ペトラの天幕の前は、仕事終わりの男たちによって完全に占領されていた。騒々しさと熱狂の中心地では、空樽の上に乗って囃し立てるサイモンと、記帳と集金に勤しむザッカスの姿があった。


「へへっ、凄ぇ伸びっぷりだ。名無しヶ丘の時を思い出すぜ!」


 ザッカスの机からは、乗り切らなかった銅貨や銭袋が零れ落ちる有様だ。


 最初はポカンとしていたペトラもすぐに我に返った。騒ぎの外延部で頭を抱えているオルファを見つけると、即座に説明を求めた。


「何なんだい、この騒ぎは!?」


「……サイモンの馬鹿が、さ」


 詳しく話を聴くと、発端はラヴェンナから薪の買い付けに来ていた商人との会話だったらしい。今日になってから急に「エルシャの剣匠と闇渡りの戦士が決闘を行う」という情報が流れ、瞬く間に街全体に広がったというのだ。それが難民団に伝わるのも時間の問題であったため、厳密にはサイモンやザッカスが原因というわけではない。


 もっとも、そこから「賭博やろうぜ!」と言って盛り上げたのはサイモンで、「胴元は任せろ!」とザッカスが喰い付き、ここまでの騒ぎになってしまったのである。


 ギデオンに人気が集中するかと思いきや、意外とイスラの方も健闘しており、単純ながらも面白い賭けとなっていた。イスラ個人に対する敵愾心を持たない者や、賭け事の醍醐味を感じたい者ほど彼に賭ける傾向が強い。また、ギデオンの力を、闇渡りたちが知らない点も多きだろう。


 とまれサイモンの仕掛けた賭博は盛況を博しており、いつもは歯止め役を担っているオルファも、今回ばかりは勢いを止められなかったらしい。


「……まあ、皆娯楽に飢えてるってのは確かだし、カナンが認めてるんだったら良いかな?」


「ちょっと待て、あたしはそんな話、これっぽっちも聴いてないよ」


「え?」


 煌都との交渉を控えているこの時期に、わざわざ煌都側の人間との決闘を許す意味が分からない。結果がどうであれ波風を立てるのは間違いないからだ。カナンの性格から考えても、到底許可を出すとは思えなかった。


 第一、そんな決定を下しているなら、まず自分の所に情報が来るはずだ。しかし実際には来ておらず、ヒルデはおろおろと歩き回り、クリシャやゴドフロアに至っては「イスラに賭ける!」と言って群衆と押し合いへし合いを演じている。


「カナンはどこ行ったんだい!?」


 ペトラが叫んだまさにその時、賭け事に熱中していた群衆の一部がやにわ・・・静まり返った。他の連中も何事かと顔を見合わせるが、無表情のカナンが立っているのを認めると、水を掛けられたように騒ぎは収まっていった。



「…………………………」



 無言のまま、カナンはずんずんと胴元のところまで歩いていくと、おもむろに懐から財布を取り出した。中に手を突っ込み、掴める限りの硬貨を鷲掴みにする。ほとんどは銀貨で、なかには金色に輝くものもいくらか見受けられた。


 机の上で、カナンは手を開いた。最初の一音が響いた際にザッカスは「ひっ」と身を反らし、サイモンはこっそり樽の上から下りた。




「ギデオンに全掛けで」




 難民団に属する誰もが、今までカナンの温和な声音しか聴いてこなかった。それだけに、この時彼女の口から出た短い一言は、後々まで語り草になることとなる。


 当のカナンはくるりと踵を返し、入ってきた時と同じ調子で出て行ってしまった。ペトラも呆気に取られていたが、彼女の去って行った方角にオーディスの天幕があることを思い出し、全てを察すると同時に駆け出していた。

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