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【第百六九節/前夜 中】

「どういうことか説明していただけますか?」


 少しだけ首を傾げながら、カナンはオーディスに対し詰問した。


 その表情は氷で造った彫像のように冷ややかだった。いつもは柔らかな口元も、今は真一文字に結ばれている。常に余裕を崩さないオーディスも、この時ばかりはさすがにややのけぞらざるを得なかった。


 しかし、それも一瞬のことで、すぐに動揺を鎮めてしまう。


「決闘の件で、ですか」


「それ以外にあると思いますか?」


「手厳しい」


「当たり前です」


 オーディスは苦笑した。あのカナンからここまで苛烈に責められるとは、自分もずいぶん悪い人間になったものだな、と自嘲する。しかしカナンからすればはぐらかされたようにしか見えず、その視線は一層冷ややかになる。


「このことについては、全て私の独断で行ったことです。どうか、御容赦下さい」


 オーディスは深々と頭を下げた。実際、彼の言葉に嘘はない。本心から言ったつもりだった。


 その声音の違いが分からないカナンではないが、今回ばかりは彼女も怒り心頭だった。後ろにくっついてきたペトラも、何も言えないままカナンの背中を見つめている。一度大きく息を吐いて感情を鎮めたようだったが、苛立ちを完全に無くすには至っていない。


「……以前から、貴方は私の預かり知らないところで動いて、私を助けてくれました。私だけの力では、到底難民たちをここまで連れてくることは出来なかったと思っています。


 でも、貴方の秘密主義的なところは改めて欲しい。今回のことだって、貴方の立場を考えれば、私に報告するのが当然のことではありませんか?」


「ごもっともです。確かに、私はそうするのが当然でしたし、良く分かっているつもりです」


「なら、どうして……!」


 カナンは無意識のうちに一歩詰め寄っていた。


 今まで、彼からは計り知れないほどの助力を受けてきた。ペトラが言うように胡散臭いところも無いではないが、それでも悪意を持った人物ではないと信じ続けてきた。


 しかし、今回彼が、イスラを政治の駒として使うつもりでいるのなら、それはカナンにとって到底許せないことだった。


 無論、秘密でギデオンとの決闘を目論んだイスラにも腹を立てている。すでに彼の頬を張り飛ばしてきたあとだ。イスラは何の言い訳もせず「すまん」と言って粛々と詫びたが、それはかえって火に油を注ぐだけだった。


 どこかで、一人重圧に耐えている自分を励ましてほしいと、イスラに期待していたのかもしれない。イスラとしては、一緒にいることでそれを果たしているつもりなのかもしれない。だがカナンからすれば、もっと深いところまで踏み込んできて欲しかった。


 ラヴェンナに着いて以来、その想いは日を追うごとに強くなっている。そんな風に考える自分自身に対して、カナンは戸惑っていた。


 自分が追い詰められつつあることは自覚している。その度に、少しずつ余裕を失っていることも。他人に対しては決して弱みを見せないが、だからこそ、それを見せられるイスラという人間は特別だったのだ。



 ――私の悩み、疲れ、ややこしさとか扱いの難しさとか、イスラあなたは全部知ってるはずなのに……!



 決闘の件を人伝ひとづてに聞いた時、最初に浮かんだ率直な感想は「裏切られた」という想いだった。


 裏切り、という言葉が、その時の自分の感情を完璧に表現出来るわけではない。もっと複雑に絡み合った情念が、瞬間的にカナンの胸を満たしたのだ。


 その、自分の中に突如現れた、どろどろとした物が何なのか、カナンはあまり考えたくなかった。


 ただでさえ考えなければならないこと、気遣わねばならないことが多いというのに。それをイスラは知っているはずなのに。それなのに、自分には内緒で、ギデオンとの決闘などという危険な行為に出ようとする。


 イスラは何も言ってくれなかった。それがまず辛いし、何を考えているのかも全く分からない。その、分からないという事実までもが、新しい苛立ちとなって彼女に圧し掛かった。




(私が、大事じゃないの……!?)




 最早オーディスに文句を言いたいのか、イスラに言い足りなかった苛立ちをぶつけているのか、カナン自身も分からなくなっていた。


 男女のすれ違いやいざこざは毎日どこかで起こっている。彼女自身、何度か仲裁役として割って入ったこともあった。だから、こういうことに頭を悩ませる自分というのを、どこか遠く感じていたのかもしれない。


 実際には、そうではなかったわけだ。


「どうして、か」


 惑うカナンに対して、オーディスもまた軽い困惑に襲われていた。ただ、彼女の深刻さに比べれば、それは極めて軽いものだった。


 傍目に見れば、いつもの余裕を保った彼と何も変わらない。しかし自分の胸中に起こった奇妙な変化については、恐らく誰にも分かってもらえないだろうな、とオーディスは思った。


「カナン様、今回の一件の責任は、全て私にあります」


「その理由を知りたいのです。もし、貴方がイスラを使って何か企んでいるのだとしたら、私は……!」


 オーディスは微笑を浮かべたまま、静かに首を横に振った。


「そうではありません……いや、皆無と言えば嘘になりますね。確かに、彼とギデオン卿との決闘が、今の膠着した状況を打破する切っ掛けになるかもしれない。そのための一手ではあります」


「無理です、そんなことは。ギデオンの強さは貴方が一番良く知っているはずです。イスラの勝ち目は最初からありません」


「無論、非常に厳しい戦いではあるでしょう。私もイスラも、そのことは良く分かっている」


「だったら!」


 オーディスは軽く息を吐いた。彼女の憤りは正当なものだ。自分とイスラが進めてきたものは、まさしく「男の身勝手」以外の何物でもない。


 だが、女性には女性の都合があるように、男性にも男性の都合というものがある。居並ぶ二人のどちらかが、それをないがしろにしていたならば、その関係性は長く続かないだろう。


(若いとは、こういうことか)


 いくら優れた能力を持っているとは言っても、カナンはまだ二十歳にすらなっていない。経験してみなければ分からないことが多すぎるのだ。


 今、こうして怒っているのも、どこかで自分自身の変化を感じ取っているからではないかとオーディスは考える。


(諭す、と言うと偉そうだが……)


 誰かが言わなければならないこともある。その役目を買って出ることを、オーディスは嫌とは思わなかった。


「カナン様。イスラは今、自分にとっての大きな壁を乗り越えようとしているのです」


「は……?」


 カナンの口から、素っ頓狂な声が漏れた。


「イスラだけではない。男なら誰でも、一度や二度、そういう機会が巡ってくるものです。戦士の子であれ、職人の子であれ、それこそ闇渡りであっても。勝つか負けるか、どちらに転ぶかは人次第でしょう。しかし、その戦いからは決して逃げられない。逃げれば……悲惨です」


「……そんな話、私には分かりません」


 彼女らしくない、意固地な発言だった。オーディスだけでなく、後ろにいたペトラさえ苦笑する。同時に二人揃って、何やら感慨深い思いさえ抱いたほどだった。


「理解しろとは言いません。ただ、知っておきなさい」


「…………」


 カナンは眉根を寄せるが、何も言えなかった。どうして自分が諭されているのか良く分からなかったが、オーディスのいつになく真剣な眼差しを受けていると、聴かなければならないと思わされた。



「カナン様。イスラは誰よりも、貴女を特別に思っています。今回は確かに不義理を犯しましたが、それも貴女のことを想えばこそでしょう。


 ……貴女は、自分が他の人間と同じだと思っている。人は皆平等であると。それは素晴らしい理念ですが、貴女以外の全ての人間が、その考えを共有しているわけではない。


 イスラもそうなのです。貴女の隣にいる彼は、ずっとそのことを抱え続けてきました。自分と貴女は違う存在だと。言葉だけではない、何か確たる証拠が欲しいと……そんな想いを、胸の内にくすぶらせてきたのでしょう」



 カナンは俯きながら、唇を噛んだ。つい先日、同じようなことをアブネルからも指摘されている。カナンは絞り出すように「イスラは……気にしていないと言ってくれました」と呟いた。



「それは嘘です」



 オーディスは斬って捨てた。カナンは息を呑んだ。



「気にせずにはいられないのです。それが、他者とつながり、社会を作る、人間という生き物の業なのです。


 貴女が愛した男は、並みの男ではありません。人並以上に苦しみ、人並以上に傷つき、それでもなお人間としての心を棄てずに来た男です。そんな彼だからこそ、貴女はイスラを愛した。違いますか?」



 どうしてカナンがイスラを愛したのか、オーディスはその経緯を知っているわけではない。


 これは、彼自身の体験談だった。自分がエマヌエルから言われたことを、そのままイスラとカナンの関係に当てはめただけだ。


 それでも通じるはずだと、オーディスは思った。エマヌエルがカナンに親近感を抱いていたように、自分もまた、イスラに対して似たようなものを覚えている。そんな共感があったからこそ、ギデオンとの決闘という無謀な挑戦に向けて、彼を送り出したのだ。


 カナンは何も言わず、頬を赤らめたまま顔をそむけた。それが答えのようなものだった。



「……凍傷が本当に痛み出すのは、凍った手先に再び血が通い始める時だそうです。


 貴女と出会って、イスラは自分の中に血が流れていることを思い出したのではないでしょうか。そして、再び血が通う時の痛みまでも、誰よりも強く感じてきたのではないでしょうか」



 沈黙が場を満たした。カナンは唇を強く結んだまま肩を震わせている。そうしていないと、胸の内で渦巻く感情が激発してしまうかもしれない。


「っ……!」


 カナンは天幕を飛び出した。オーディスもペトラも、その後を追おうとは思わなかった。今は一人きりになって、頭を落ち着かせるための時間が必要だ。


「……意外だったよ。あんたが、そんなことを考えてたなんてさ」


 ペトラはオーディスを見上げて言った。


「ずいぶん信用が無いな」


「そりゃあ、ねえ」


「カナン様を追いかけないのか?」


「今は一人きりの方が良いさ。微笑ましいよ、まったく」


 やれやれと言いたげな表情で、ペトラは肩を竦めた。オーディスも「そうだな」と相槌を打つ。


 あのカナンが見せた年相応の表情は、二人にとってとても新鮮なものだった。


「さて、と。それじゃあ、あたしはあっちイスラの方に行ってくるよ」


「ああ。その方が釣り合いがとれる。任せるよ」

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