イスラの姿を見つけるまでに、それほど長い時間を必要としなかった。カナンが肩をいからせて歩いていったのは誰もが見ているし、その方向を逆にたどっていけば、やがてイスラのいる場所へとたどり着く。
彼は、居留地からやや離れた丘の上で、地面に胡坐をかいて座っていた。肩には
「よう、色男」
そう言ってペトラが揶揄うと、イスラはゆっくりと振り返った。苦々し気に歪んだ顔には、カナンに張り飛ばされた痕跡が、赤みとして残っていた。
「何の用だよ」
「分かってるんだろ? カナンのことさね。あの子、かつて無いくらい怒ってたよ」
「……」
今度は
「あの子が怒るのも無理ないよ。あたしだってびっくりしたんだ。何もかも唐突に過ぎたね」
「それは……悪かったと思ってるよ。でも、こうでもしないと、あいつは決闘なんて認めてくれないだろ?」
「まぁ、そうだろうねえ」
立場的にも、またイスラを心配する心情からも、カナンが彼の行動を認めるとは到底思えない。
「でもね、それでもあんたは、あの子としっかり話をするべきだったよ」
「……そうか?」
「そうさ。いいかい、女ってのは隠し事をされるのを嫌がるものなんだ。自分が除け者にされたように感じちまう。あたしのことなんてどうでも良いのか! って具合にね」
「でも、それで打ち明けたとして、あいつが首を縦に振らなかったらどうするんだ? 男か女、どっちか片方は我慢することになるんじゃないのか?」
「そこで上手い落としどころを見つけ出せてこそ、本当に信頼し合った間柄ってことさね」
「……難しいな」
「ああ。難しいよ」
イスラはごろりと身を横たえた。野草が首筋を冷やした。大きく息を吸い込み、それ大きなため息に変えて吐き出す。
今はこんなことで悩んでいる場合ではない。ギデオンとの決闘は明日だというのに、未だに準備が終わっていないのだ。オーディスを通じて闘技場の間取りを聞きだしたが、そこでどんな戦術を展開すれば良いのか、考えがまとまらない。アブネルから出された闇渡りの武術についての謎解きも、まだ解けていなかった。
このまま戦っても碌な結果は得られない。
そんな状況であるにも関わらず、イスラは心のどこかで、カナンとの間で生じたいざこざを楽しんでいた。
「大きなため息の割に、あんまり悩んでるようには見えないね」
「分かるか?」
「そんな顔してると、あの子、また怒るよ」
「ああ」
でも、と言いながら、イスラは腹に力を込めて起き上がった。
「なんか良いな……って思ってさ」
カナンに
虎の爪痕に触れると、否応なしに孤独だったころを思い出してしまう。暗闇の中から音も無く飛び出してきた怪物が、自分の顔に消えることの無い傷を残していった。逃れた大樹の上で三日三晩、飲まず食わずで過ごしたことも含めて、イスラの中に決して消えることの無い記憶として刻み込まれている。
あの爪の痛みは、孤独な痛みだった。それを癒してくれる者も無く、血を流したまま、一人で全世界に対峙し生き延びねばならなかった。
だが、頬を打たれる……こともあろうに、カナンから叩かれた経験は、虎の爪と全く異なる感慨としてイスラの中に刻まれた。
これは、誰かが隣にいるからこそ、知ることの出来る痛みなのだと。
社会というつながりの中で生きる、人間にしか知ることの出来ない痛みなのだと。
イスラはそう理解した。
「呑気だねぇ」
「そうでもない。真剣なつもりだよ」
手前勝手に
「……まあ何にせよ、これからはコソコソとやらないことだね。あの子のためにも」
「分かってる。今回限りだ」
「負けるにしても?」
「……誰か一人くらい、お前は勝てる! って言ってくれる奴はいないのかよ」
イスラは三白眼で、不満げにそう漏らした。彼らしからぬ子供っぽい物言いだった。
「お生憎様。あたしはあの男の強さを真近で見たからね。いくらあんたが強くなったって言っても、あいつ以上になったとは思えない」
「そりゃ、腕前はな。でも、勝つか負けるかは別の話だろ?」
「場合によってはね。実戦はいつも一筋縄にはいかないものさ。けど、明日は決闘場でやるんだろ? 幸運は期待でき……」
「待て」
それまで静かだったイスラが、急に身を乗り出してきた。驚いたペトラはやや腰が引ける。それに構わず、イスラは彼女の肩をしっかと掴んだ。
「今、何て言った?」
「い、いや、だから幸運は期待出来ないって」
「その前だ!」
「え? えーっと、実戦はいつも一筋縄にはいかない、ってやつかい?」
「そう、それだ!」
イスラは両手を打ち鳴らした。彼の唐突な変貌ぶりについていけないペトラは、ぽかんとした表情を浮かべている。
そんな彼女を置いて、イスラは明星の柄をひっ摑んだ。シャンと鈴を鳴らしたような鍔鳴りとともに、抜き放たれた刀身が眩く輝く。
明星を握ったまま、イスラは
闇渡りの第一の構え。その姿勢をとったまま、イスラは瞑想するように目を閉じた。
今まで、これが武術の基本的な型だと思っていた。伐剣という武器を使う上で最も適した状態であると。
だが、この構えが語っているのはそんなことではない。
(アブネルの野郎……分かり難いこと言いやがって)
頭の中で愚痴を呟きつつも、これまで欠けていた何かが補われるのを感じた。曖昧だった戦略が明確に形をとり、勝利への道筋を照らし出す。
これなら勝てる……依然、頼りない勝ち筋ではあるが、零ではなくなった。
「ペトラ」
「な、何だい……?」
「楽しみにしとけよ。明日、俺が負けるって言った奴全員に吠え面かかせてやるからな」