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【第百七十節/「汝、そこにあればこそ、」】

 古来より騎士道精神を重んじるラヴェンナでは、決闘が一つの文化として継承されてきた。騎士同士の馬上試合が、一般大衆に見世物として披露されることもままああることだった。


 煌都ラヴェンナの郊外には、そうした決闘ないし武芸を披露するための場として、闘技場が建てられていた。建造物というよりも、広場を整備し観客席を設けただけの、簡素なものだ。


 直径二十ミトラ(約二十メートル)程度の円形闘技場を囲むように、客席が配置されている。闘技場と客席の間には、幅五ミトラに及ぶ深い水堀が掘られており、武芸者と観客とを隔てていた。円の両端に造られた石橋以外に、闘技場に入る術はない。


 円の縁にあたる部分には四本の石柱が等間隔を開けて立っており、その上には天火を戴くための台座が据えられている。学院での講義の際に火が灯されるのと同様に、決闘の場においても、天火に照らし出されることは格別の意味を持っている。


「パンとサーカス……って言うでしょ?」


 闘技場を見下ろす貴賓席で、マリオンは扇を口元にあてながら言った。傍らにはギヌエット大臣が控えており、「はあ」と曖昧な返事をする。


 マリオンが期待した通り、闘技場の観客席は見物人で溢れかえっていた。席はとうに埋まっており、立ち見はおろか、肩車をしてもらう者や、柱にしがみついて見物している者さえいるほどだ。ここぞとばかりに菓子や飲み物を売ろうとする行商や、私的に賭けをする者の声も相まって、まるで街を一つ押し込めてしまったかのような騒々しさだ。


 見物客は当然ラヴェンナ人だけではない。難民団の居留地からも、観戦に来ている者が幾人もいる。混乱を避けるために席の区画を分けてあるが、マリオンはその中にカナンの姿を探していた。観覧鏡をのぞいてあちこちに視線を送ってみるが、見つからない。


(まあ、いいわ)


 御簾の後ろでマリオンはほくそ笑む。カナンの「王子様」の負けっぷりを見るために、これだけの人間が集まっただけでも満足だ。マリオンはイスラのことなど全く知らないも同然だが、すでに負けるものと決めつけていた。


 カナンの傷つく顔が見れれば、なお嬉しい。


 マリオンは仄暗い期待感を胸に抱いたまま、手元の飲み物を啜った。




◇◇◇




 薄暗い控え室の中で、イスラは一人、黙々と準備を進めていた。


 明星ルシフェルの柄を握り、少しだけ鞘口から浮かせる。琥珀のように透き通った刀身の中で、蒼い天火が踊っている。


「……」


 しばしその揺らめきを眺めてから、刀身を納めた。


 鞘を剣帯に吊るす。左前腕に梟の爪ヤンシュフの射出装置を巻きつけ、こちらもしっかりとベルトを締める。外套は脱いでいくことにした。


 近くの椅子の背もたれに外套を放り投げた時、コンコンと扉を叩く音がした。


「……イスラ、いますか?」


「いるよ」


 イスラの返事から、扉が開くまでに、いささか時間が必要だった。


 カナンが扉の陰から半分だけ顔を覗かせる。「何やってるんだよ」とイスラが言うと、俯いたまま部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。


「どうしても、行くんですか?」


「ああ……丁度良かった、少し頼みたいことがあったんだ」


「頼み?」


 明星を抜き、その柄をカナンに向ける。


「こいつの天火、全部抜いてくれ」


「……入れる、の間違いじゃないですか?」


「天火が無いことに意味があるんだ」


「……」


 カナンは物言いたげな表情のまま、それでもイスラの言う通りにした。金色こんじきの刃から蒼い炎が吸い取られる。


「ありが……」


 イスラが剣に手を伸ばした瞬間、カナンは明星を両腕で抱き寄せた。刀身は剥き出しのままだ。驚いたイスラが歩み寄ろうとするが、カナンは一歩下がって壁に背中を押し当てた。


「カナン、お前……」


「っ、分かってます、もう止められないってことくらい……」


 指が刀身に沈み込む。滲み出た鮮血が明星の刃を濡らした。



「イスラ、一つだけ教えてください。私は、貴方を苦しめていたのですか……?」



 そう言いながらも、カナンは自分の心がどの方向を向いているのか分からなかった。


 まだ、イスラが黙って事を進めたことに対する憤りはある。彼が自分の中の悩みを話してくれなかったことも。互いに信頼し合い、足らない所を補い合っていきたかった。寄り掛かりたいと思った時には、寄り掛かって欲しかった。


 そう思う一方で、彼の中の葛藤に思い至らなかった自分が、他の誰よりも恨めしい。庇われ、守られる一方であることに、少しも気付いていなかった。


 元よりこの旅は、イスラが望んで始めたものではない。あの日……イスラがギデオンと戦った時に、カナンは彼の実力と気概を買ったのだ。それが本当に良かったのかどうか顧みずに。


 決して悪い選択では無かったと思っている。しかし、その決断が、彼に本来得るはずの無かった苦しみを味わわせてしまったかもしれない。


 そこに思い至らなかった己の無思慮が、カナンはどうしようもなく恥ずかしかった。


「もし、私といることが貴方を苦しめているのだとしたら……この戦いが終わっても、イスラは……」


 たった一度の戦いで、彼のわだかまりが消え去るとは思えない。


 そんな単純に解決出来るほど、イスラのコンプレックスは浅くないはずだ。


 そうして彼を苦悩の中に留めおくくらいなら、自分たちはいっそ違う道を選んだ方が良いのではないか……。


 重い沈黙が二人を包んだ。カナンは手の痛みを歯牙にもかけず、明星を手放すまいと握り締めている。刀身が少しでも擦れたら、彼女の細い指など簡単に落ちてしまうだろう。


「……そうだな」


 カナンがハッと顔を上げる。目尻に涙が滲んでいた。だが、目の前にあったイスラの穏やかな微笑は、決して否定的な感情を示してはいなかった。



「お前と一緒にいて、苦しいと思ったことは何度もあったよ。痛みには慣れていても、苦しさとか、辛さみたいなのは、ずっと長いこと忘れていた気がする」



 そんな自分を恥ずかしがるように、イスラは頭の後ろを掻いた。



「けどな、カナン。最近になってようやく分かってきたんだ。お前と一緒にいて感じる辛さとか、自分の劣等感を意識することとか……それは全部、お前がいるから分かることなんだ、って」



 だから正直、お前との痴話喧嘩も楽しかった。とは、さすがに言えなかった。



「お前だけじゃない、他の色んな連中が……トビアとか、ペトラとか、サイモンとか、オーディスとか……サウルやアブネルだって、そうかもしれない。この旅の中で会ってきた奴らから、俺は知らないうちに、色んなことを教わっていたんだと思う。一人でいたんじゃ分からなかったことを、数えきれないくらい」



 自分は割と最初のころから、その重要性に気付いていたのではないかとイスラは考える。ただ明確に言葉にすることが出来なかっただけだ。


 カナンという、行動する人間の傍にいること。そこから、彼女の在り様を観察すること。彼女を守る、彼女の傍らに居続ける……その誓いを固く守り通してきたからこそ、自分はこうして多くのものを得られたのだと、イスラは思った。



「そうやって、分かったり分からなかったりを繰り返していくのが、今は楽しいんだ」



「傷ついても、ですか?」



「傷つかずに生きていくことなんて、出来ないだろ?」



 そう言って、イスラは頬に刻まれた三本の爪痕をなぞった。視線は、血の滲んだカナンの指を見つめている。



「今なら、本当に不幸なことが何か分かるんだ。誰かと比べて自分を卑しむこととか、虐げられることとか。それは辛いことだけど、本物の不幸じゃない」



「それって……?」



「本当に不幸なのは、一人きりで真っ暗闇・・・・の中にいることだ……って言って、分かってもらえるか?」



「暗闇……」



 気恥ずかしそうにイスラは目を背けた。カナンのような抽象的な言い回しになってしまったが、やはり自分がやると上手くいかない。ただ、彼が思う不幸・・を明確に語ろうとすると、とても長ったらしいものになってしまう。そんな風に説明するより、暗闇という言葉が持つ感触を読み取ってほしかった。


 どう語れば良いのだろう? イスラは自問する。


 あの孤独な暗闇を。孤独ということに気付かないことを。自分が様々なものを失い、ぼろぼろに傷ついていることに、全く無自覚であるということを。


 己を不幸と思う者は、たとえそのような状況にいるとしても、最底辺にまで堕ちてはいない。人の魂が底の底まで行き着くと、身心両面の痛覚を失ってしまうのだ。


 ……そんな状況など、普通に生きている者には分かってもらえない。


 だが、カナンは彼の言葉を正しく読み取ってくれた。



「それが、貴方がずっと居た場所なんですか?」



「……お前は俺を、生き地獄から引っ張りあげてくれた。だから、お前と一緒に居て味わう色んなことを全部受け止めていきたい。


 そのためにも、俺はあの男と戦って、確認しなきゃいけないんだ。俺がどれくらい遠くまで来れたのか、どれくらいのものを得られたのか。


 どれくらい……あの時から変われたのか」



 イスラは手を差し出した。カナンはその手の平に視線を落としつつ、しばし押し黙っていた。


 明星を握り締めていた指から力が抜ける。再び顔を上げたカナンは、イスラの目には笑うとも泣くともつかない、淡い表情を浮かべていた。


「……私の言葉だけじゃ、足りないと思うけど」


 あの日の、野良犬のような荒んだ身なりと、光を失いかけた瞳しか持っていなかった姿。そして今、目の前に立っている、穏やかさと厳しさを兼ね備えた青年の姿。カナンの目の中には、その二人の姿が並んで映っていた。


 どちらか片方が無ければ、もう片方もあり得ない。どちらかが居れば良いわけではなく、また居なければ良いわけでもない。


 ただ一つ言えることは、あの時声を掛けなければ、今の自分も、今のイスラも居なかっただろう。カナンはそう思った。




「イスラは変わったよ」




 そう言って、カナンは明星を差し出した。




◇◇◇




 闘技場に一歩ずつ近づくにつれ、地面を震わすような歓声がその音量を増していく。暗い通路の先に光が見え、その中心に一人の男が、地面に剣を突き立て待っていた。


「待たせたな」


「そうでもない」


 ギデオンは剣を引き抜き刀礼する。イスラも明星を抜き、顔の前の構えて応えた。


 二人の聴覚から、歓声が遥か彼方へと消え去っていく。最早目の前にいる敵手以外には、何者も存在しなかった。


 常夜の空の月は、今日も明々と輝いている。時折流れる雲だけが、その明かりを遮った。


 陰っていた三日月が再び顔を見せた瞬間、示し合わせたかのように、決闘の開始を告げる鐘が鳴り響いた。

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