鐘の音の振動が完全に消えたその瞬間、両者は同時に駆け出し、激突した。
互いに振り下ろした剣が重なり、大音声が響き渡る。いずれかの刃が折れたかと思えるほどの衝突にも関わらず、両者は闘技場の中心で鍔迫り合いを演じていた。
剣と剣がぶつかったのだから、鍔迫り合いになるのは当然のことに思える。しかし、当事者の片方であるイスラは、衝突の刹那にギデオンが見せた絶技に気付いていた。
だが、ギデオンは刀身が触れたその瞬間、イスラの速度と腕力を完全に再現し、腕ごと剣を身体の側へと引き寄せていた。つまり、瞬間的に二本の剣が、まったく一本の剣になったのと同じ状況を作られたのだ。単純な理屈ではあるが、こんなことは他の誰にも真似出来ない。
「オレイカルコスの剣か。良い武器を手に入れたな」
折れるどころか、逆にイスラを押し込めつつギデオンが言う。
「しかし、それが貴様の手に入れた全てではあるまい……!」
腕に掛かる加重が、より一層重くなる。まるで巨人と押し比べをしているような錯覚に囚われた。しかし、イスラもまた、唇を吊り上げて見せる。
「当然っ!」
明星を捻り鍔迫り合いの状況を解除、同時に横へと跳ぶ。着地の際の屈伸運動をそのまま加速へと転化し、間髪入れずに連撃を仕掛ける。
しかしギデオンも一瞬で体勢を立て直し、イスラの横薙ぎに対応した。最小の動きで明星をかち上げ、がら空きになったイスラの身体に反撃の袈裟斬りを見舞う。イスラは動物的な反射神経で首をすくめ回避するが、疑いなく、斬首を狙った一撃であった。
(覚悟はしているッ!!)
最早ここまで来て、ギデオンの剣に恐怖することなどあり得ない。己の選んだ戦いは、ただひたすら完遂しなければならない。
弾かれた剣を引き寄せる。ギデオンの剣は、すぐ目の前にまで迫っていた。
一歩退き、寸での所で切っ先を避ける。しかしすぐに二の太刀、三の太刀が追い詰めてくる。いずれも稲妻のように鋭く強い斬撃だった。
だが、イスラも見事に捌き切って見せた。明星の刀身でそれらの攻撃を受け止め、受け流し、反撃の機会を窺う。戦闘における理想は、最小の手数で敵を無力化すること。ギデオンがそれを理解していないはずもなく、彼にこれだけの手数を使わせられるという時点で、イスラの技量には十分な価値が認められるだろう。
無論、そんなことを気にしている余裕は、イスラには無かった。いくら反射神経が優れているとはいえ、いつまでも一方的に打たれ続けているわけにはいかない。現に、防ぎ切れなかった刃が肌を裂き、上半身にいくらか血が滲み出た。
受け止めた長剣を全力で押し返し、イスラは一旦距離をとった。闘技場の縁、天火を戴く柱まで下がろうとする。が、ギデオンは休息を許さない。
刀身を水平に倒し、突進突きを繰り出す。
「掛かった……!」
突きが来ると見えた瞬間、イスラはくるりと身を翻した。柱の外、すなわち水堀の上へと身を投げたことになる。さしものギデオンも、一瞬その意図を読みかね動きを止めた。
だが、下に落ちたかに見えたイスラは、逆にギデオンの頭上から強襲を仕掛けた。しかも、明星は石柱の天火を全て吸い取り、煌々と燃えている。
全ての経緯を正確に把握出来た者はいなかった。ギデオンからすれば完全に死角の中で行われたことであり、観客にはそもそもイスラの動きを捉えられない。
イスラは、手中に収めた天火全てを、一撃の内に込めた。さしものギデオンも、これは受けられないと判断して退く。彼の立っていた場所に明星の刀身がめり込み、流し込まれた天火が爆発と共に闘技場の床を大きく抉った。
おおよそ剣術では起き得ない音が響き渡り、粉塵、爆煙が戦場を満たした。両者の位置は決闘の開始以前に引き戻され、一拍の間が生まれる。
その間、向かい合ったまま、互いに呼吸を整えた。ほんのわずかな休息が終わり、二人の身体を再び緊張が縛りかけた時、客席から罵声が飛び込んできた。
「卑怯者!!」
誰が最初に言ったのかは分からないが、それに続くように、あちこちからイスラに向かって罵詈雑言が投げつけられた。神聖な天火を奪ったのみならず、それを決闘で使うなど、到底許容出来ることではない。
「喧しいッ!!」
しかし、それらの声を一喝して黙らせたのは、他ならぬギデオンだった。
長剣の切っ先をイスラに突きつける。
「
そう言うだろうな、とイスラは思っていたが、笑わずにはいられなかった。
「ああ……遠慮なくやらせてもらう」
イスラは駆け出した。今の一撃で石畳が割れているが、この程度の悪地など問題にもならない。
明星の斬撃は、やはりギデオンの剣によって逸らされた。まともにかち合えば折れてしまうため、当然といえば当然の対策だ。逆に言えば、ギデオンは必ずそういう捌き方をしなければならない。動きを制限しているとも取れる。
イスラはそこに付け込んだ。攻め続けている限り、ギデオンは不利な立ち回りをせざるを得ない。
円形の舞台の中、踊るように二人は斬り結んだ。イスラの激しい足捌きに対し、ギデオンは最小限の移動しかしない。イスラは彼の態勢を崩せず、現に振り回されているが、それ以上の激しさでもって噛み付いていた。
時に、ギデオンは得物の間合いを活かし、明星の切っ先が届かない位置から攻撃を仕掛けてくる。この点だけ、イスラの明星は明確に劣っている。どこまでいっても明星が伐剣であることに変わりは無いからだ。
長所である取り回しの良さを活かそうにも、零距離ですらギデオンは隙を見せない。
(高いな)
剣撃の応酬の中、イスラは無意識のうちにそう思った。
今まで、強い相手などいくらでもいた。それこそ、純粋な力比べをするならば、あのウルクの魔女に勝てる人間など
だが、ギデオンの強さは、ただの暴力とは一線を画している。限界を定めず、ただひたすら鍛錬に鍛錬を重ねてのみ手に入れられる技術の集積。剣匠ギデオンは確かに剣術の天才かもしれないが、今の彼の強さを形作っているのは、膨大な探求と修行の結晶に他ならない。
上段から振り下ろされた剣を受け流す。ギデオンの胴が空く。相手が剣を構えなおすより、自分の突きが届く方が早い。
「迂闊ッ」
ギデオンに言われるまでもなく、突いたイスラ自身が直感していた。
半身になって避けたギデオンは、そのまま左腕でイスラの腕を締め上げた。手はイスラの
故に、イスラはさらに一歩踏み込んだ。ギデオンは突けない。剣が長過ぎるのである。間合いの差が、ここで裏目に出た。
イスラは思い切り頭を振りかぶる。それに合わせて、ギデオンもまた頭突きをぶつけた。頭蓋骨で最も分厚い箇所同士が衝突し、生々しい音が響き渡る。しかしギデオンの拘束は緩まない。それどころか、剣の柄尻で何度もイスラの脇腹を殴打する。一撃毎に臓器が揺さぶられ、肋骨が悲鳴を上げる。
それで、気勢が萎えるということは無かった。
イスラは身を沈め、真下からギデオンの顎に頭突きを見舞う。さしもの剣匠も、脳を揺らされればたじろがざるを得なかった。
間合いが開いた。イスラはこみ上げる吐き気を押し殺しつつ、明星を構えなおす。ギデオンも一度かぶりを振った。唇が切れたのか、口元に血の筋が流れていった。
斬り込むべきだ、とイスラは思った。だが、痛覚が警鐘を鳴らす。殴りつけられた脇腹から、嫌な痛みが上ってきていた。
(……折れたな)
そう判断した時には、すでにギデオンが斬り掛かっている。痛みを押し殺しそれを受け止めるが、一瞬顔が歪んだところを見られた。その小さな弱みが、この男の前ではいかに危険なものであるか、ここまでやられて分からないイスラではない。
当然、ギデオンはその隙を見逃さなかった。
今までよりも一層重い斬撃が降りかかる。イスラはそれを受け止めるが、激痛から完全に止めるには至らず、長剣が左肩に沈み込んだ。見た目ほどの重傷ではないが、この先の展開を考えると決して軽視出来る問題ではない。
再度、大ぶりな攻撃が、今度は真横から襲ってきた。明星を両手で握り防御するが、肩と脇腹が灼熱する。傷口から血が噴き出した。
「チッ」
刀身を滑らせ反撃に転じようとする。しかし、ギデオンの蹴りが腹に食い込む方が早かった。何とか上体を曲げ、腹筋に
追撃に備えて後方へと飛び退る。当然まだ終わらない。即座に距離を詰めてきたギデオンが連続で突きを見舞う。一つの呼吸で、四回。二発目までは明星で逸らすが、残りの二発は完全には止められなかった。一撃がイスラの右わき腹を掠め、二撃目が左肩の傷口を抉った。
そうして傷を負いながらも、イスラは大きく後退する。背中が石柱にぶつかった。
そこでイスラは、またしても誰も予期しない行動をとった。明星を口に咥えるやいなや、あろうことかギデオンに背中を向け、跳んだのだ。ほとんど予備動作の無い跳躍にも関わらず、イスラの両手は石柱の頂きを掴み、ギデオンの刃が届くよりも先に登り切ってしまった。まるで蛇か蜥蜴のような早業だった。さしものギデオンも、この闇渡りらしい特技には舌を巻くしかなかった。
さすがに石柱の上まで逃げてしまえば、ギデオンの攻撃も一旦止む。代わりに満場一致の罵声が浴びせられるが、イスラはそんなものを歯牙にもかけず、悠々と天火を吸収した。
(あと二つ、か)
手の中では、再び天火を得た明星が赤々と輝いている。
その天火を治療に充てるべきか、それとも……。
「どうした、闇渡り」
石柱の下に立ったギデオンが、剣を地面に突き立て尋ねる。
「いつまでもそこにいられると、さすがに俺もどうしようもない。
それとも、もうこのあたりで仕舞うか?」
ギデオンは、笑ってさえいる。せいぜい額が少々腫れているくらいで、傷らしい傷は全く無い。ぼろぼろの自身と見比べると、イスラもつい笑ってしまった。
奇妙に和やかな時間だった。観客たちの不満などどこ吹く風で、イスラはあたりを見渡しつつ、考えた。
石柱に残る天火はあと二つ。二つもある。
(このままやっても、ジリ貧だな)
天を仰ぐ。金色の三日月に雲が掛かろうとしていた。それを見てイスラは、やろう、と思った。
「馬鹿言うなよ」
ギデオンを見下ろし、明星を突き付け、イスラは不敵に笑った。
「俺は、まだ色々
ギデオンは剣を引き抜いた。
「良いだろう、掛かってこい」
彼がそう言い放った瞬間、イスラは跳んだ。今度は闘技場の中心に向かって。当然ギデオンは着地際を狙おうとするが、イスラは飛び込んでいる最中に、全ての天火を地面へと叩き付けた。
今までとは比較にならないほどの爆発が生じ、煙幕が闘技場を満たした。イスラが爆炎に巻き上げられ、吹き飛ばされるのが見えたが、姿が完全に消える。
瓦礫が地面に落ちる音、客席のどよめき。膨大な聴覚情報の中で、ギデオンは一つの音を捉えていた。間違えようはずもない、刃が空を切る時の音だ。しかし、それが鳥のように自分の周囲を旋回している。
思考の最中、残り二つの天火が消える。あたりがふと暗くなった。そして間髪入れず、今までとは種類の異なる爆音……水の爆ぜる音が聞こえた。
砂埃と、白い水蒸気。闘技場を照らしていた四つの天火はすでに無く、そして月は雲の影に。
闇が、戦場を包んだ。
◇◇◇
今や視界は完全に失われている。イスラ自身、ギデオンの位置を完全に把握しているわけではなかった。爆発の直前におおよその位置は掴んでいるが、彼がそこから動かないという確証はない。
だが、ギデオンは待つだろうな、とイスラは思った。あの男は気になるはずだ、自分がこれからどんな手札を切るのか。平和な時代に不釣り合いな、圧倒的な武の才能を持ってしまった男は、常に退屈と相対せざるを得ない。だから、楽しめる時にとことん楽しもうとするはずだ。
そこが、剣匠ギデオンの唯一の弱点である。イスラはそのことに気付いていた。
彼は無意識のうちに、深く身体を沈めていた。左手は指を立て、柄を握った右手は、護拳を地面に押し当てる。きっと自分の頬を抉った虎も、このようにしたはずだ。
明星を手元に戻し、突撃姿勢をとるまでの一連の流れは、客観的にはほんの数秒のことだった。だが、イスラの脳裏には、瞬間的に様々な出来事が去来していた。この旅の間で得た様々なことが。
例えば、闇渡りの構えの意味。あれは、あの姿勢のまま斬りかかることを意味しない。一撃必殺を狙っても、真正面から斬り掛かれば迎撃されるのがおちだ。
だから、隠れるのだ。闇渡りに決まった戦場など存在しない。その時々に応じて身を潜め、一刀のもとに斬り伏せること。それが、あの構えの答えである。
この戦いにおいて、イスラは天火を利用こそすれど、一度として当てにしてはいなかった。むしろ、四本もあるのが邪魔ですらあったのだ。それらが残ったままでは、この状況は決して作れない。
イスラが、闇を渡る。
間合いは一瞬で詰まった。障壁を突き抜けた先に、直前で全てを察知したギデオンが剣を振りかぶっている。しかし事ここに至って、イスラに迷いなど微塵も無かった。
裂帛の咆哮と共に、イスラは明星を振り上げた。今や痛みなどあって無きが如しだ。全身全霊を込めた一撃は、しかし、真上から振り下ろされた剣によって押し止められる。轟音が響き渡った。
「まだァ!!」
その轟音さえも掻き消すほどの声で、イスラは叫んだ。刀身を滑らせる。火花が散る。全身ごと叩き付けるように、イスラは明星を振るった。
ギデオンの技巧は、連撃を受けてもなお鈍らない。大ぶりな攻撃の隙を突いて、イスラの身体に次々と傷が増えていく。しかしいずれも致命傷ではない。完全に攻撃に回るには、まずイスラの攻勢を凌がなくてはならないからだ。
だが、その攻勢が止まらない。月光を象ったかのような金色の刃は、今やイスラの肉体と一体化していた。
常に安定した足捌きを崩さなかったギデオンが、わずかに一歩、しかし確かに後退させられた。
イスラはそれを見逃さない。明星を肩に担ぎ、両手で柄を握り締め、ギデオンが後退した分の間合いに踏み入む。
決闘が始まった時と同じように、ギデオンはその威力を吸収しようとした。
だが、すでに彼の長剣は、最強の伐剣の連撃によって摩耗し切っていた。彼の技術では補い得ない、物理的な限界点。イスラの最後の一撃を受け止めると同時に、ギデオンの長剣が中ほどから砕けた。
イスラの明星が、そのままギデオンを斬るかに見えた。しかし剣同士が触れる直前で、すでにギデオンの直感は折れることを察知している。
そこから先の動作は、ギデオンも全く無意識に行っていた。身体を逸らして明星を回避し、剣を握ったままの右手で、無防備なイスラの喉元を殴りつけていた。
呼吸が止まると同時に、イスラの意識が刈り取られた。身体が浮き、受け身も何も出来ないまま、荒れ果てた闘技場の床に仰向けに倒れる。
ギデオンは手元の剣に視線を落とした。微かに息が上がっている。命の危険を感じるほどの一撃など、滅多にあるものではない。
いつの間にか、闘技場は完全に静まり返っていた。誰もがイスラとギデオンの戦いに引き込まれ、応援することも、罵声を投げかけることも忘れてしまっていた。
やがて誰かが、思い出したように「どっちが勝ったんだ?」と疑問を呈した。その問いはすぐに全体へと波及し、「剣が折れたからイスラ」と「立っているからギデオン」の二つに割れた。
だが、外野の討議など、ギデオンにとって無意味だった。足元に転がっているイスラが息を吹き返し、ごろりと寝返りを打った。うつ伏せになり、両腕に力を込めて起き上がろうとする。しかし大きくむせ返り、踏まれた蛙のように這いつくばった。
「良いのか、闇渡り。このままだと
いつもの負けん気から言い返そうとするが、口からは唾液と、ひゅーひゅーというか細い呼吸音しか出てこない。そんな有様にも関わらず、イスラは地面に明星を突き立て、縋りつつ身体を持ち上げた。
誰もが、立ち上がろうとするイスラを見守っている。今や誰一人として、この壮絶な戦いを繰り広げた闇渡りを非難する者はいなかった。
(……声が……)
声が聞こえた。
知った声ばかりだった。
震える脚に力を込め、剣を杖の代わりにして、イスラは立った。葦のように頼りなく揺れている。何度か倒れそうにもなった。それでも、立っている。そして、唇を吊り上げながらギデオンに言った。
「言っ……た、だろ。俺は色々、持っ……てる、って……」
ギデオンはふと相好を崩した。
「そうだな」
そしてもう一度手元の剣の残骸を見下ろした。
「貴様の勝ちだ」
ギデオンは残骸を鞘に納める。鍔鳴りの音と同時に、会心の笑みを浮かべたまま、イスラは再び仰向けに倒れ込んだ。
その瞳と、愛刀によく似た色の輝きが、中天より彼を見下ろしていた。