ふらふらと揺れながら、イスラは何とか控室に辿り着いた。それと同時に最後の緊張の糸が切れ、いくら傷ついても手放さなかった
イスラは壁に背中を押し付けて、ずるずるとその場に座り込んだ。まだ首元が痛む。肺が十分に空気を吸い込めていなかった。
だが、戦いで負った痛みも、今のイスラにはひどく遠いものに思えた。自分の魂が、半分身体から抜けかけているかのようだ。そりゃ幽霊になれば痛くもないよなあ、と埒も無い考えが浮かぶ。
そんなイスラを現実へと引き戻したのは、扉を押し倒す勢いで雪崩れ込んできた、難民団の仲間たちだった。真っ先にサイモンとザッカスが飛び込んできて、彼の黒い髪の毛をくしゃくしゃと搔き乱した。「祝杯だ!」とサイモンが叫ぶが、誰も酒瓶など持ってきていなかった。
「おいおい、一本も無いのかよ!」
そう怒鳴るサイモンも手ぶらである。
「お生憎様。ぶっちゃけみーんな、ギデオンが勝つと思ってたからね」
男どもの脚をかき分けてきたペトラが言う。周りから「何だよ」と嘆息が漏れたが、イスラは一人だけ、可笑しそうに忍び笑いを漏らした。
「まあ、下馬評はそんなもんだろうな……なあペトラ、アブネルの部下連中は、どんな顔してた?」
「残念ながら、吠え面かいてる奴はいなかったよ。皆、あんたの戦いにくぎ付けになってたんだから」
「……そうか」
少なくとも、彼らの目から見て不十分な戦いではなかったらしい。それならば、オーディスと話していたように、この決闘の最低限の目的を達成出来ていたことになる。
「オーディスは?」
「ここにいる」
声がしたと思うや、その方角から葡萄酒の瓶がぽんと投げ込まれた。サイモンが器用にそれを捕まえる。
「君には驚かされたよ。まさか、あのギデオン卿の剣を折るところまで行くとは……心から感服した、と言っておこう」
「そいつはどうも」
何となくイスラは、オーディスがあらかじめ二本分の葡萄酒を用意しているような気がしていた。彼はそういう男だ。
「期待以上の成果だった。今回の君の勝利には、とても大きな意味がある」
「あんまり勝ったって気はしてないけどな」
「あの、エルシャのギデオンの剣を折ったのだ。今の君がこれ以上のものを求めるなら、傲慢と言わざるを得ないな」
「分かってるよ。ただ、実感が無いってだけだ」
「固い話は後にしようぜ、それよりもこいつを……」
サイモンが葡萄酒の栓に手をかけるが、ペトラがそれを手で制した。
人混みが割れて、後ろに佇んでいたカナンが姿を現わす。
「……こりゃ、俺たちは邪魔だな」
気を利かせたサイモンが、ペトラと一緒になって他の者を部屋から追い出した。ちゃっかり葡萄酒の瓶を握ったまま、サイモンは後ろ手に扉を閉めた。
後には、イスラとカナンの二人だけが残された。
床に座り込んだままのイスラに、カナンはそっと歩み寄った。地面に膝をついてイスラの顔を見つめる。
「どれくらい変われたか、見極めることは出来ましたか?」
彼女の問いかけに、イスラは少しだけ首を傾げた。
「身に染みるほど、良く分かったよ。ただ……」
「ただ?」
「すごく
こうして限界まで戦っても、結局ギデオンの実力には到底追いついていない。その力量の差をイスラは意識せずにはいられなかった。
だが、そんなことを考えるようになれたのも、やはり変われた成果と言うべきだろう。
「そんな風に考えられるのは、イスラが成長したからですよ」
カナンも、彼の思いと同じことを言った。
「最後、あいつにぶっ飛ばされて、息が出来なくなった時にな」
「うん」
「お前、俺の名前を呼んでただろ?」
「私だけじゃないですよ。ペトラも、サイモンさんやザッカスさんや、オーディスさんまで……」
やっぱり。イスラはそう言って微笑んだ。口の中の傷がちくりと痛んだ。
「ありがとな、カナン」
イスラは礼を言った。だが、カナンは少し眉を寄せ、頬を膨らませる。
「言っておきますけど、私はまだ、全部赦したわけじゃないですからね」
「お前、結構引きずるんだな……」
「そんなことも知らなかったんですか?」
唐突にカナンは身を乗り出し、まだ血の滲んでいるイスラの唇に、自分のそれを重ねた。イスラは面食らい、身体を硬直させる。今までの遠慮がちな行為とは違う、長く深く求めるような口づけだった。頭を両手で包み込み、柔らかな唇を強く押し付ける。イスラの五感がびりびりと痺れた。
やがて「はぁ」と息を吸いながら、カナンは顔を離した。
「私はイスラのこと、まだ良く知らなかったんだって、思い知らされました。
でも……イスラもまだまだ、私の知らない部分を見ていないでしょう?」
彼女の口元に、彼の血が少しだけこびりついていた。唾液に濡れて艶々と光を反射する唇や、何より少し伏せられた彼女の蒼い瞳がひどく扇情的で、イスラは無意識のうちに唾を呑んでいた。
「……ああ、そうだな」
心臓が早鐘を打つ。今ならどうだろうかと、イスラは彼女に手を伸ばし、抱き寄せた。パルミラで彼女が酔いつぶれた時に一度だけ手を出しかけたことがあったが、その時は自身の劣等感の故に、それ以上踏み込めなかった。
だが、今は何の
だからだろうか、初めて触れるわけではないのに、衣越しに伝わるカナンの身体の柔らかさが、この上無く愛おしく思えた。
そのまま、彼女の上着に指を掛け……。
「えいっ」
脱がそうとした瞬間、カナンがイスラの脇腹を小突いた。ギデオンにしこたま殴られ、骨を圧し折られた箇所である。
「いってぇ!」
完全に不意打ちであったため、いつもの我慢強さもどこかに消し飛んでしまった。涙目になって上半身を曲げるイスラから、カナンはひょいと飛びのいた。
「だから言ったじゃないですか。まだ赦してないって」
「お前、悪魔かよっ!?」
闘技場での勇猛さはどこへやら、一転して情けない表情を浮かべたイスラが抗議する。だが、カナンはツンとした表情のまま、なおかつ肩をぷるぷると震わせていた。
「まあとりあえず、傷を治すのが先決じゃありませんか?」
「そりゃそうだが……っ! いや、だが、男にはこう、なんだっ……!?」
「男の人が自分の都合で女の子を振り回すなら、同じ理由で振り回されたって、文句言えませんよね?」
この期に及んでイスラは、ようやく自分が、かつてない程にカナンを怒らせていたことを悟った。
どうにも、多少の頑張り程度では、この穴埋めは出来そうにない。イスラはがっくりと肩を落とした。ある意味、今日ギデオンから喰らったどんな攻撃よりも、強烈な一撃だった。
そうして燃え尽きているイスラには、カナンの両耳が真っ赤に染まっていることに気付くゆとりなど、微塵も無かった。