目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

【第百七三節/羨望】

「申し訳ありません、ユディト様」


 イスラがカナンに翻弄されていたのと時を同じくして、ギデオンもユディトに頭を下げていた。


 だが、そうして謝罪をされても、ユディトはまだ信じられない気持ちだった。彼女はギデオンの勝利を確信しており、まさか負けるような結果になるなど、微塵も考えていなかった。


 事実、勝ったイスラがボロボロなのに対して、ギデオンは多少唇を切った程度で、外傷らしい外傷はほとんど見受けられない。


 それでも、事前の取り決めの通り、負けは負けなのだ。ギデオンは一切言い訳をしなかった。


「驚きました……明日は、雨が地面から降ってきそうですね」


 そんな冗談を言うのが精一杯だったが、表情は強張っていた。だが、ギデオンは朗らかに「それは、一大事ですな」と言っている。あまり負けたことが悔しくないらしい。


 どちらかと言うと、イザベルとイザベラの方が遥かに悔しがっていた。試合直前に難民団の賭けに乗って、ギデオンに全賭けした彼女たちは、見事に今夜の酒代をってしまったのである。


「何やってるんですかケンショー!」「しっかりやれよケンショー!」


 そう怒鳴りながら、ギデオンの左右から交互に体当たりを繰り返している。彼は苛立つでもなく「すまんすまん」と空返事をするのみだった。


 だが、ユディトがいつまでも硬い表情のままなので、さすがの彼も少々気がかりになった。


「負けた師匠など、見たくはなかったですか?」


 彼なりに気を利かせたつもりだったが、ユディトはゆっくりと首を横に振った。豊かな金色の髪が、その動きに合わせて左右にさらさらと揺れ動いた。


「いえ……本当に、驚いているだけなんです。色々なことが私の予想しなかった方向に進んでいて、何というか……まだ、これからどうなるか、考えがまとまり切らないだけですね。だから混乱しているんです」


「左様ですか。しかし、ユディト様のことです。それもすぐに終わりましょう」


「そう、ですね。差し当たり、明後日の全煌都会議が心配です。すぐに戻って、対策を取らないと」


 未だにギデオンに絡み続けているイザベル、イザベラを引っ張って、ユディトは控室を出ようとした。扉を閉じようとした時、ふと思い出したように呟いた。


「ギデオン」


「何でしょうか?」


 鞘を剣帯から外しながら、ギデオンは聞き返した。そんな彼に向かって、ユディトは言った。



「私は別に……貴方の強さを見てるわけではありませんから」



 それだけ言ってしまうと、きょとんとした表情のままのギデオンを置いて、ユディトはそそくさと扉を閉めてしまった。


 そんな彼女を挟むように、イザベルとイザベラがにやけ面を近付ける。


「そこはちゃんと」「私が好きになったのは、貴方の強さじゃないんですぅ! って言わなきゃあ」


 ユディトは無言のまま、二人の頭に拳骨を落とした。特にイザベラの、やけに引き延ばしたような口調が癪に障った。


 確かに、ユディトが言いたかったのはそういう内容の言葉だった。


 だが、それとは別に、控室に帰って来た時のギデオンを見て、気がかりになったことがあったのだ。それが、彼女の表情を頑なにしていた。


(あんな生き生きとした顔……私といる時には、見せてくれないのに……)


 ギデオンは鉄面皮でいることが多いが、決して無表情な人間ではない。誰よりも彼の傍らに立ってきたユディトは、そのことを良く知っている。彼の様々な側面を見てきたつもりだった。


 だが、煌都にいるときの彼の横顔には、いつもどこか寂しさのようなものが感じられた。まるで、鳥籠の中に入れられて、翼を広げることを禁じられてしまった鳥のように。


 そんな彼の不満が解消されたのは、ユディトの知る範囲では二回しか無い。一度ひとたびはオーディス・シャティオンとの戦いで、そしてもう一度は、闇渡りのイスラとの戦いを通して。


 八年前に彼が本気で戦ったのを見た時、幼いながらも、何か怖さのようなものを感じたのを覚えている。狂気にも近い迫力であった。一度それに呑み込まれてしまえば、ギデオンと言えど帰ってくることは出来ないだろう。


 今日の戦いにおいても、ギデオンはどこまでも楽しそうに戦っていた。ただ、八年前ほどの狂的な戦いぶりではなかった。イスラの実力が、ギデオンに死力を尽くさせるまでに至っていなかったのか、それとも何か別の要因でそうなっているのか、ユディトにも判断がつかなかった。



 ただ一つ、確実に言えることは、自分は今、闇渡りのイスラに嫉妬しているということだった。



 だから、というわけではないが、ユディトはなお一層、カナンをエデンに行かせたくないと気持ちを新たにした。




◇◇◇




 闘技場に集まった観客たちが、熱気も冷めやらないまま帰っていくなか、それを見下ろす貴賓席は奇妙な静謐に包まれていた。


 マリオン・ゴートの傍らに控えたギヌエット大臣は、女王の癇癪を恐れて身を縮こまらせていた。だが、いつまで経っても彼女が怒りの声を上げることはなく、椅子に座ったまま微動だにしなかった。


「陛下……?」


 凄惨な戦いを目にしたために、気分を悪くしたのかもしれない……女王の体調をおもんぱかった大臣は、小声で問いかけた。


「いかがなされましたか? もしや」


「っ、大丈夫よ、ギヌエット」


 そう言って、マリオンは乱暴にドレスの袖で顔を拭った。それを見て、ギヌエットは初めて、マリオンが声も無く泣いていたのだと気付いた。激情家の彼女には珍しい、静かな涙であった。


「あの闇渡り、名前はなんと言ったかしら」


「確か、イスラとかいう名前であったかと」


「そう」


 名前を聴いておきながら、マリオンはそれ以上何も言わず、かすかに視線を下げた。背後に立っているギヌエットも、彼女が少し首を傾けたのが見えていた。今の問答そのものには大した意味が無かったようである。


イスラ打ち勝つ者……)


 マリオンは胸中でその名前の意味を反芻した。彼の戦いを見ているうちに自然と溢れてきた涙の理由が、その名前と繋がったような気がした。


 あの闇渡りが戦おうとする動機は、マリオンには分からない。何か感じるところがあり、こうして涙を流しはしたものの、やはり馬鹿な戦いを仕掛けたものだと思う。勝ったとはいえ、傷み具合で言えばイスラの方が遥かに傷ついているのだ。


 だが、イスラはそれを物ともせず、見事に戦い抜いて勝利を得た。自らの名前の通りに。


(名前、か)


 名前がその人の人生を決めるのだろうか。それとも、人は自らの名前に追いつこうとするのだろうか。


 自分の姉は、神に寄り添う者エマヌエルという名前に引き摺られて死んでいった。賭けても良いが、エマヌエルは名前に追いつこうとして、追いつけなかった人だ……マリオンはそう考えていた。そして、それは不幸なことであるとも。


「…………勝手にすれば良いわ」


 固い意志を持ち、それを通そうとする人間。マリオンは、自分がそれとは正反対の人種であると自覚している。羨みはするが、決してそうなりたいとは思わない。


 憧れは遠くにあるからこそ、眩く輝いて見えるものだ。


 マリオンにとって姉は理想の存在であり、だからこそ誰よりも憎い相手だった。その一方で、彼女がそこまで幸せそうだったかというとそうではない。常に誰よりも優れた存在でなければならず、その苦しみを共有してくれる者もいなかった。


 マリオンが努力していれば、あるいはエマヌエルの相談役くらいにはなれたかもしれないが、マリオンは決して姉を助けようなどと思わなかった。結局、全ての名声はエマヌエルの物になってしまうのだから。


 挙句の果てが、世界の果てで討ち死にだ。そんな無様な死に方をした姉のことを、マリオンは心底蔑んでいた。


 意志を通そうとする人間が大嫌いで、そのまま生き続けてきた。だからカナンもユディトも嫌いになった。だが……とるに足りない、ちっぽけな闇渡りの戦いに、久しく流していなかった涙を抑えきれなかった。


 今さら自分が、高潔な生き方が出来るなどと思っていない。しかし、選ぶ機会のある者ならば、話は別だろう。マリオンは知らず知らずのうちに尋ねていた。


「ねえ、お前はどうなるの?」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?