「申し訳ありません、ユディト様」
イスラがカナンに翻弄されていたのと時を同じくして、ギデオンもユディトに頭を下げていた。
だが、そうして謝罪をされても、ユディトはまだ信じられない気持ちだった。彼女はギデオンの勝利を確信しており、まさか負けるような結果になるなど、微塵も考えていなかった。
事実、勝ったイスラがボロボロなのに対して、ギデオンは多少唇を切った程度で、外傷らしい外傷はほとんど見受けられない。
それでも、事前の取り決めの通り、負けは負けなのだ。ギデオンは一切言い訳をしなかった。
「驚きました……明日は、雨が地面から降ってきそうですね」
そんな冗談を言うのが精一杯だったが、表情は強張っていた。だが、ギデオンは朗らかに「それは、一大事ですな」と言っている。あまり負けたことが悔しくないらしい。
どちらかと言うと、イザベルとイザベラの方が遥かに悔しがっていた。試合直前に難民団の賭けに乗って、ギデオンに全賭けした彼女たちは、見事に今夜の酒代を
「何やってるんですかケンショー!」「しっかりやれよケンショー!」
そう怒鳴りながら、ギデオンの左右から交互に体当たりを繰り返している。彼は苛立つでもなく「すまんすまん」と空返事をするのみだった。
だが、ユディトがいつまでも硬い表情のままなので、さすがの彼も少々気がかりになった。
「負けた師匠など、見たくはなかったですか?」
彼なりに気を利かせたつもりだったが、ユディトはゆっくりと首を横に振った。豊かな金色の髪が、その動きに合わせて左右にさらさらと揺れ動いた。
「いえ……本当に、驚いているだけなんです。色々なことが私の予想しなかった方向に進んでいて、何というか……まだ、これからどうなるか、考えがまとまり切らないだけですね。だから混乱しているんです」
「左様ですか。しかし、ユディト様のことです。それもすぐに終わりましょう」
「そう、ですね。差し当たり、明後日の全煌都会議が心配です。すぐに戻って、対策を取らないと」
未だにギデオンに絡み続けているイザベル、イザベラを引っ張って、ユディトは控室を出ようとした。扉を閉じようとした時、ふと思い出したように呟いた。
「ギデオン」
「何でしょうか?」
鞘を剣帯から外しながら、ギデオンは聞き返した。そんな彼に向かって、ユディトは言った。
「私は別に……貴方の強さを見てるわけではありませんから」
それだけ言ってしまうと、きょとんとした表情のままのギデオンを置いて、ユディトはそそくさと扉を閉めてしまった。
そんな彼女を挟むように、イザベルとイザベラがにやけ面を近付ける。
「そこはちゃんと」「私が好きになったのは、貴方の強さじゃないんですぅ! って言わなきゃあ」
ユディトは無言のまま、二人の頭に拳骨を落とした。特にイザベラの、やけに引き延ばしたような口調が癪に障った。
確かに、ユディトが言いたかったのはそういう内容の言葉だった。
だが、それとは別に、控室に帰って来た時のギデオンを見て、気がかりになったことがあったのだ。それが、彼女の表情を頑なにしていた。
(あんな生き生きとした顔……私といる時には、見せてくれないのに……)
ギデオンは鉄面皮でいることが多いが、決して無表情な人間ではない。誰よりも彼の傍らに立ってきたユディトは、そのことを良く知っている。彼の様々な側面を見てきたつもりだった。
だが、煌都にいるときの彼の横顔には、いつもどこか寂しさのようなものが感じられた。まるで、鳥籠の中に入れられて、翼を広げることを禁じられてしまった鳥のように。
そんな彼の不満が解消されたのは、ユディトの知る範囲では二回しか無い。
八年前に彼が本気で戦ったのを見た時、幼いながらも、何か怖さのようなものを感じたのを覚えている。狂気にも近い迫力であった。一度それに呑み込まれてしまえば、ギデオンと言えど帰ってくることは出来ないだろう。
今日の戦いにおいても、ギデオンはどこまでも楽しそうに戦っていた。ただ、八年前ほどの狂的な戦いぶりではなかった。イスラの実力が、ギデオンに死力を尽くさせるまでに至っていなかったのか、それとも何か別の要因でそうなっているのか、ユディトにも判断がつかなかった。
ただ一つ、確実に言えることは、自分は今、闇渡りのイスラに嫉妬しているということだった。
だから、というわけではないが、ユディトはなお一層、カナンをエデンに行かせたくないと気持ちを新たにした。
◇◇◇
闘技場に集まった観客たちが、熱気も冷めやらないまま帰っていくなか、それを見下ろす貴賓席は奇妙な静謐に包まれていた。
マリオン・ゴートの傍らに控えたギヌエット大臣は、女王の癇癪を恐れて身を縮こまらせていた。だが、いつまで経っても彼女が怒りの声を上げることはなく、椅子に座ったまま微動だにしなかった。
「陛下……?」
凄惨な戦いを目にしたために、気分を悪くしたのかもしれない……女王の体調を
「いかがなされましたか? もしや」
「っ、大丈夫よ、ギヌエット」
そう言って、マリオンは乱暴にドレスの袖で顔を拭った。それを見て、ギヌエットは初めて、マリオンが声も無く泣いていたのだと気付いた。激情家の彼女には珍しい、静かな涙であった。
「あの闇渡り、名前はなんと言ったかしら」
「確か、イスラとかいう名前であったかと」
「そう」
名前を聴いておきながら、マリオンはそれ以上何も言わず、かすかに視線を下げた。背後に立っているギヌエットも、彼女が少し首を傾けたのが見えていた。今の問答そのものには大した意味が無かったようである。
(
マリオンは胸中でその名前の意味を反芻した。彼の戦いを見ているうちに自然と溢れてきた涙の理由が、その名前と繋がったような気がした。
あの闇渡りが戦おうとする動機は、マリオンには分からない。何か感じるところがあり、こうして涙を流しはしたものの、やはり馬鹿な戦いを仕掛けたものだと思う。勝ったとはいえ、傷み具合で言えばイスラの方が遥かに傷ついているのだ。
だが、イスラはそれを物ともせず、見事に戦い抜いて勝利を得た。自らの名前の通りに。
(名前、か)
名前がその人の人生を決めるのだろうか。それとも、人は自らの名前に追いつこうとするのだろうか。
自分の姉は、
「…………勝手にすれば良いわ」
固い意志を持ち、それを通そうとする人間。マリオンは、自分がそれとは正反対の人種であると自覚している。羨みはするが、決してそうなりたいとは思わない。
憧れは遠くにあるからこそ、眩く輝いて見えるものだ。
マリオンにとって姉は理想の存在であり、だからこそ誰よりも憎い相手だった。その一方で、彼女がそこまで幸せそうだったかというとそうではない。常に誰よりも優れた存在でなければならず、その苦しみを共有してくれる者もいなかった。
マリオンが努力していれば、あるいはエマヌエルの相談役くらいにはなれたかもしれないが、マリオンは決して姉を助けようなどと思わなかった。結局、全ての名声はエマヌエルの物になってしまうのだから。
挙句の果てが、世界の果てで討ち死にだ。そんな無様な死に方をした姉のことを、マリオンは心底蔑んでいた。
意志を通そうとする人間が大嫌いで、そのまま生き続けてきた。だからカナンもユディトも嫌いになった。だが……とるに足りない、ちっぽけな闇渡りの戦いに、久しく流していなかった涙を抑えきれなかった。
今さら自分が、高潔な生き方が出来るなどと思っていない。しかし、選ぶ機会のある者ならば、話は別だろう。マリオンは知らず知らずのうちに尋ねていた。
「ねえ、お前はどうなるの?」