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【第百七四節/「焼け跡を奪る」】

 当人たちにとっては実感の無い話だが、イスラとギデオンの決闘は、ラヴェンナにおける難民問題の一つの潮目となった。


 それまで話題にこそなれど、王宮の中の出来事故に庶民とは遠い場所にあったものが、一気に身近な現実として受け止められたのだ。


 闇渡りの代表と、煌都最高の剣士の闘いという単純な図式も、大衆の興味を引くことに一役買うこととなった。イスラの戦い方について賛否両論が吹き荒れ、不正を疑う者や、やり直しを訴える者も多数現れた。


 しかしそういった手合いは、大抵彼らの戦いを直に見たわけではなかった。あの時あの場に居合わせ、イスラとギデオンの決闘を目の当たりにした人々にとっては、まさに目の当たりにした事が全てであったのだ。


 ただ一度の戦いで、社会の有り様そのものを変えることは出来ない。しかし、イスラがギデオンに挑み、死闘の末に勝利をもぎ取った事実は、確かにラヴェンナという社会に影響を及ぼしたのである。


 そして、イスラという上昇気流に乗せられた大衆の興味は、必然的に難民団の進退へと向けられた。


 決闘が、全煌都会議の二日前だったということも大きい。


 ラヴェンナ側には大衆の熱気を削ぐ時間的余裕が無く、また、会議の開催を引き延ばすことも出来なかったからだ。カナンによって統制されているとはいえ、闇渡りの難民はラヴェンナ全土の懸念材料に他ならない。このまま混乱が長引いた場合、盛り上がった大衆と難民が衝突する可能性は零ではないのだ。


 だからこそラヴェンナの、特にマリオン・ゴートの期待は、ユディトの対抗策へと向けられることとなった。




◇◇◇




「期待外れだったわ」


 登城を求められ、謁見の間で跪いたユディトに向けて、マリオンは開口一番に罵声をぶつけた。周囲にはギヌエット大臣と護衛のための騎士が控えているだけで、他には誰もいない。王配たるグィドはそもそも、こうした小規模な謁見に引き出されることはほとんど無かった。


 いつも通り垂れ幕の後ろに座したマリオンは、こうべを垂れたままのユディトを見下ろしながら大仰に溜息をついた。


「当代最高の剣士と言われているから期待していたけれど、あんな闇渡り一人に敗れるなんて、ずいぶん情けないのね」


 ギヌエットが冷や汗を浮かべながら、マリオンに抗議の視線を送る。女王はそれを歯牙にもかけずユディトを愚弄し続けた。


「あの一戦のお陰で、ラヴェンナの大衆は浮足立っているのよ。私の治める街をこんな風に混乱させた責任、どう償うつもりなの?」


「恐れながら陛下、ギデオン卿の決闘に関しては陛下が直々に裁可されたことではありませんか!」


 さすがに口が過ぎると判断したのか、ギヌエットが声を大にして注進した。普段はおとなしく、黙々と仕事をこなす男なだけに、マリオンも少しばかり驚かされた。だが驚き以上の癪の強さで、すぐに出る杭を叩いてしまう。


「あれは、ギデオンとやらが勝つと見越していたからよ! こんな結果、誰も想像するはずないじゃない!」


 右手に握った扇で何度も肘掛けを殴る。がらんとした広大な謁見間に、乾いた音が虚しく響いた。主従のやりとりをよそに、ユディトは同じ姿勢のまま押し黙っている。そんな彼女にマリオンの癇癪が向けられるのは当然の成り行きだった。


「いい加減に黙っていないで、何か言ったらどうなの!?」


「……発言を許していただけるのですか?」


「もったいぶってないで、言いたいことがあるなら言いなさいよ」


 では、とユディトは背筋を伸ばして立ち上がった。口をきいて良いとは言われたが、起立して良いとまでは言われていない。本来なら「不敬」と言われかねない行為だ。現にマリオンは舌打ちをするが、彼女がそれ以上口を開く前に、ユディトが先んじて言葉を発した。


「ギデオンの敗北は、正直なところわたくしにとっても想定外のことでした。あの一戦は政治的にも大きな意味合いを含んでいます。ラヴェンナの民衆が感化されるのも、当然と言えるでしょう」


 目は伏せたまま、ユディトはすらすらと言葉を並べていく。マリオンの怒気にはいささかも気圧されていない。女王は苛立たし気に、扇を手の平に打ち付けた。


「ですが民衆の興味を集中したことが、かえって難民団の……継火手カナンにとっての致命傷となる可能性もあります」


「……どういう意味?」


「単純なことです。明日の全煌都会議を衆人環視の下で公開し、そこでエマヌエル殿下より続く救征軍構想を完全に打ち砕くのです。そうすればカナンは、日和見を決め込んでいる各煌都はもとより、一旦なびきかけた大衆の支持すらも失うこととなります」


 そう説明されたところで、素直に納得するマリオンではない。「そんな簡単に事が進めば、誰も苦労しないわよ」と言い返す。



「秘策があります」



 決して大きな声ではなかったが、そう言い放ったユディトの言葉にはせっかちな女王を押し黙らせるだけの自信が漲っていた。


「秘策、って?」


「今は言えません」


「何よ、偉そうなこと言って、結局口先だけなんじゃないの?」


 ユディトは依然目を伏せたままだった。だが、かすかに唇を吊り上げたように見えたのは、マリオンの思い込みのためではないだろう。


 そもそも、マリオンの批難は言いがかり以外の何物でもない。何しろ、当のラヴェンナの既定路線は、難民たちを救征軍として辺獄へ送り出すことなのだ。最も負担が少なく、後腐れの無い方法を選ぶならば、素直に彼らを支援して出立させるのが一番手っ取り早いのである。


 対して、手の内を晒さないユディトは、最初から救征軍の中止だけは公言している。つまり、立場上は正反対に位置するのだ。


 つまるところ、マリオンがカナンの救征軍を潰したいと願うのも、こうしてユディトをなじるのも、ただの言い掛かりに過ぎないのである。


 傍から見ている人間には、このような構図がありありと浮かび上がっている。ギヌエットは気が気でなかった。くらいや外交関係を考えれば、ユディトがマリオンに噛みつくことなどありえないが、これほど理不尽な物言いを続けられればどうなるか分からない。それに、いくら遠方の煌都とは言え、エルシャもこの世界を形成する一角であり、ユディトはそこに少なからぬ影響を持った人物だ。彼女が押さえてくれなければ、いずれとんでもない不利益を被るかもしれない。


 だが、ユディトはどこまでも理性的だった。余裕を崩さず、正面からマリオンに斬って返した。


「一つだけ、私の戦略についてお話しておきましょう」


 マリオンが口を開きかけるのを察して、ギヌエットは不敬を承知で片腕を上げた。とばりの後ろでマリオンが舌打ちする。


 ユディトは続ける。


「ある政治的問題が見つかった時、それは机上に乗せられたまま、論じられるのを待っています。個々人や集団によって主張することは違えど、人は人、問題は問題のままです。


 火事や災害で崩れてしまった家を見たことはありますか? ある人はそこを更地にして、鶏を飼うための鶏舎にすると言う。一方で、家を建て直すべきだと主張する人もいる。ですがいくら口論を重ね、どちらか一方が優勢になったとて、そこに焼け跡や廃墟があるという事実は変わらないのです。


 また、人は無地の衣に例えられます。どんな汚れがついても、洗い落としたり、汚れた生地を切り取って縫い直すことが出来ます。染料に漬ければ簡単に好きな色の服を生み出せる……」


「間怠っこしいわね。つまり何が言いたいのよ」


 この時になって、初めてユディトは目を開いた。妹と同じ、蒼玉のように澄んだ瞳が、帳の奥のマリオンをじっと見据えた。


「私の戦略はただ一つ。継火手カナンから、難民問題という名の焼け跡を奪ってしまうことです」

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