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【第百七五節/歯車の軋む日】

 その日、煌都ラヴェンナのバシリカ城門前広場は、都市の住人たちでごった返していた。


 緊張を顔に漲らせた衛士たちが、無言のまま槍と盾を構えて大衆を威圧している。まだ暴動に至るような雰囲気ではないが、他の煌都以上に厳格な身分制度が敷かれているラヴェンナでは、このような光景はかつて見られなかったことだ。


 広場の中心には巨大な円卓が置かれ、すでに十の都の代表者たちが席についている。ユディト以外は皆落ち着かない様子で、もじもじと身体を動かすところに居心地の悪さが見て取れた。


 いかんせん、全煌都会議を王城前広場で行うと通達されたのは今朝のことだ。寝耳に水とはまさにこのことで、誰もが飛び起きる羽目になった。


 この提案は、エルシャのユディトが直接女王に謁見して通したものだった。


 エルシャが反救征軍の急先鋒であることは各所に知れ渡っており、ユディトの動向もカナンと同程度の注目を集めていたのである。カナン率いる難民の一団がラヴェンナに到着する以前から、すでにエルシャ対救征軍、あるいはユディト対カナンの図式は広く認知されていた。


 もっとも、救征軍の成立に関する投票権は、各煌都の代表の手にゆだねられている。そのため、どれほど大衆が集まったところで、投票の行方にはさほど影響を及ぼさない。ラヴェンナ女王の名代として出席しているギヌエット大臣はともかく、それ以外の都市の使節には、ラヴェンナの大衆心理などさして問題にはならないのだ。


 それはカナンにとっても同じことで、いくら大衆から人気を集めようと、多数決という冷酷な判断方法を好転させる材料にはなりえない。


 難民の居留地から四頭立ての馬車で出発し、途中ラヴェンナ市民からの好奇の視線を浴びながら登城したカナンは、だが「それでも良い」と考えていた。


 迎えの使者から議場が変更になったと聞かされた瞬間に、カナンはユディトの考えを見通していた。


 大衆の面前でこれからの社会の行く末を討議すること。


 多数決という明確に勝ち負けの分かれる方法を採るがために、勝利した側は一気にその支持を得られ、敗北した側は全てを失うことになる。煌都の政治家とほとんど接点を持たず、大衆の人気と共感を拠り所にしているカナンは、敗北すれば完全に再起不能となるだろう。


 無論、同じことはユディトにも言える。しかし彼女の場合、仮に敗北したとしても失うものは少なくて済む。何より、最初から負けることなど一切考えていないのだと、カナンは確信していた。


(それでも、良い……)


 ゆっくりと進む馬車に、城下町の子供たちが並んで走っている。カナンが窓を開けて手を振ると、きゃっきゃと笑いながら手を振り返した。子供だけでなく、非番の兵士や農夫たちがその後に続き、今日は商売は出来ないと見切りをつけた商人、奉公に出ている女までもがカナンの馬車を追って城門前へと流れ込んだ。


(皆に聞いてもらおう。私の思う全てのことを)


 今、馬車の中には彼女一人しかいない。付き添いの者は誰も呼んでいなかった。オーディスやペトラ、イスラでさえ、一般の聴衆に紛れて聞くことになっている。


 だが、自分の中に積み上げられた言葉の宮殿は、数多あまたの人々の意思を見聞きしてきたからこそ造り得たものだ。


 たとえそこに誰もいなくても、言葉さえあれば、その体温や手触り、吐息や輪郭を思い出すことが出来る。そして、その思いの形を受け継ぎ語るものもまた、言葉に他ならない。



 それが伝わるか伝わらないかは、自分次第だ。



 溢れかえる大衆を掻き分けて、馬車が城門前広場へと到着した。石畳が見えなくなるほどの人が集まり、入りきらなかった人々は建物の屋根へと上がっている。屋根に菜園を作るため頑丈に出来ている骨組みも、あまりの重さに軋んでいる。


 馬車の扉が開かれる。エマヌエルのダルマティカを纏ったカナンが、そっと地面に爪先を触れさせた。片手に権杖を持ち、胸元には杖・翼・炎の意匠のペンダントが揺れている。


 大衆の海が左右に分かれた。カナンはその間を通り、広場の中心……兵士たちによって守護された円卓に向かって、ゆっくりと歩んでいく。




◇◇◇




 広場を見下ろす城壁には、許可を得て座を占めた学者の一団が並んでいる。興味と緊張を露にした博士たちに混ざって、ハルドゥスやコレットも、これから起きる出来事を固唾を呑んで見守っていた。


 コレットは気になっていた。果たして、世界を変えようとすることが本当に正しいことなのか。継火手カナンは何を正しさと定義するのか。また何を持って、その正しさを語るのか。継火手ユディトは、カナンの語る正しさにどのような言葉で相対するのか。


 この凝り固まった世界の歯車が、確かに動き出そうとしているのを、コレットは学者の端くれとして感じ取っていたのである。


 余談ではあるが、彼女が筆を握り締めていたまさにその時、一つの歴史的な出来事が起こっている。


 ある目ざとい画家が、真横からこの広場の様子を捉えた絵を描いていた。後に広く知られるようになるその絵では、右手側の城門に向かって、左手側の馬車から降りたカナンが歩いていく姿が描かれている。会議が終わった後、この画家は広場全体を翼で支える二人の天使を描き加えていた。


 後になって、保守的の意見を持つ者を右翼、進歩的な意見を持つ者を左翼と称するようになるのだが、この時点においてはまだ誰もその言葉を知らない。

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