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【第百七六節/新世界賛歌―循環国家論】

 カナンが円卓の前に進み出ると、それまで騒然としていた広場が水を打ったように静まり返った。これほどの大観衆にもかかわらず、まるで示し合わせたかのように沈黙したのは、それ自体が一つの奇跡のようであった。


 ラヴェンナ代表兼司会を務めるギヌエット大臣が、厳かな声で全煌都会議の開催を宣言する。



「白き炎の守護者、煌都ラヴェンナの統治者たるマリオン・ゴート陛下に栄えあれ。神の憐憫を受けし諸都市の代表者。並びに親愛なるラヴェンナ市民の前で宣言致します。


 我々は互いに信義と礼節を持って議論を交わし、今後の歴史に大影響を与えるであろう問題に、一つの決断を下すものであります。


 我が同胞であり良民たるラヴェンナ市民におかれましては、この会議の行く末を見守っていただき、いかなる結果をも認めていただきたい。


 それでは、難民団代表、継火手カナン。貴殿の発言を許可します」



 権杖を真っ直ぐに立てたカナンは、静かに顔を上げた。杖の先端で光る蒼い天火と、それに良く似た蒼い瞳が大衆の視線を一手に収めた。


 いつものように広く深く染み渡る、澄み切った声音でカナンは語り始めた。



「私に語る機会を与えてくださった、ラヴェンナ女王マリオン・ゴート陛下。各都市の代表者、並びにラヴェンナ市民に、深く感謝致します。


 我々難民団の存在は、ラヴェンナに住まう人々にとって常に気がかりであったことと存じます。それは、神が世界を闇に覆われて以来、常に闇渡りという存在が隠されてきたからに他なりません。


 姿が見えないということは、それだけで恐ろしいことです。ですが、たとえ姿が見えたとしても、その内面が見えないのであれば、結局は盲目なのです。


 我々は闇渡りについて、何を知っているのでしょうか。人並みの生活をせず、他者との争いに明け暮れるということでしょうか。男は必ず盗賊となり、女は必ず娼婦に堕するということでしょうか。


 私は彼らと寝食を共にし、その生活をつぶさに見てきました。かつて煌都の人間の一人であった私にとって、その日々は驚異と困惑の連続でした。風説の通りだと思うこともあれば、全く逆であるということもありました。ただ、今の私にとって、そんな闇渡りたちは全て愛すべき人々です。


 私は煌都エルシャの大祭司の娘として、何不自由の無い環境で育ちました。衣食住に困ったことは、少なくとも煌都に住んでいたころは一度として無く、様々な分野の賢者たちから真理を学び、過分なほどの期待を集めました。


 ですがその裏では、闇渡りたちはその日の生活も事欠く環境に置かれていました。今でもそうです。今、こうして話しているこの瞬間でさえ、どこかの森の中で、誰かが危機に陥っていることでしょう。


 私の知るある闇渡りは、森の中で虎に襲われ、月が三度空を横切る間も大木にしがみついていたそうです。その時、私は何をしていたのでしょうか。分かるはずもありません。ただ、飢え乾く恐怖と無縁であったことだけは確かです。


 闇渡りのサウルという男がいました。


 彼は己の野心と欲望のために、この世界が長らく忘れていた戦争という事件を引き起こしました。彼が闇渡りの中で比類の無い人物であったことは、難民たちもよく口にしています。並外れた悪人であったとも。


 ですが、闇渡りたちはその悪人の強さの中に、確かに未来を見出したのです。それがどれほど血で穢れていようとも、穢れを吹き飛ばしてしまうほどの眩い光を放っていたのでしょう。


 我々に、彼らの希望を否定する権利があるでしょうか。何も持たせず、凍えるに任せておきながら、いざ自分たちに牙を剥けば敵として排除する……我々が彼らをそのように扱うのであれば、彼らもまた、我々に対し報復するでしょう。そうして終わることのない復讐の連鎖が生まれるのです。



 だからこそ、私はエデンを求めます。



 虐げられた人々が安らぎ、憎しみが枯れ果て、人が人に立ち返る楽園を。そのような街がこの世界に一つでも現れることによって、この世を離れ給うた神は、再び我々に目を向けられることでしょう。


 これは煌都に住む人々にとっても大切なことなのです。我々に新たな煌都を建設し得る力があると証明されれば、最早この世界の住人が互いに相争う合理的な理由は無くなるのです。エデンの開拓が成れば、我々は敵と味方、都市生活者と闇渡りという区分から解放され、ただ居留者と開拓者という区分だけが残るのです。そして、今あるものに、さらに多くのものが増し加えられていくことでしょう。


 十の煌都より全権を委任された方々におきましては、どうか深慮の上で、我々の命運をお定めくださいますよう、お願い申し上げます」



 カナンの言葉は、静まり返った広場の隅々にまで行き渡り、さながら砂地に注がれた水のように人々の心の中へと入り込んでいった。


 だが、怜悧冷徹に実利を考える煌都の重鎮たちの判断を動かすには至らない。否、本来ならここで決着がついていたはずなのだ。現状を解決する最も有効な手が一つしかないのであれば、それを選ぶしかない。緊急時にあっては、何も判断しないことが最悪手となり得ることもあるのだから。


 彼らを迷わせているのは、ひとえにユディトが用意したもう一つの案があるからだ。


 そして、ユディトが動いた。



「御高説、承りました」



 円卓のうちの一席に座したユディトが、静かに、だが断固とした口調で言い放った。実の妹に向けるにはあまりに冷たく、また一人の継火手に向けるにしても、ひどく不遜な言い方だった。


 ユディトが席を立った。聴衆がざわめく。煌都の使節たちですら彼女の動きの意図が分からず、困惑した表情を浮かべる。


 滝のように流れる金色の髪に指を差し込み、さっと掻き上げる。燈台から降り注ぐ光が反射し、一瞬、宝石のように輝いた。全く芝居掛かっていない自然な仕草にも関わらず、ユディトは大衆の視線を一瞬で回収してしまった。


 大衆には自然と見えたその動作が、いかに計算し尽くされたものであるか、妹であるカナンは即座に見抜いていた。


 自分自身にも当てはまることだが、優れた容姿は統治者にとって大きな武器になる。ギデオンが当代最高の剣士であるように、ユディトもまた、どんな継火手も恥じ入ってしまうような美貌の持ち主なのだ。


 だが、美しさというのは単に顔の良さだけを指すものではない。言葉遣いや所作はもちろんのこと、身に着ける物の選び方や教養に至るまで、全ての面で卓越していなければならない。こうした技術・・を完璧に会得するには、相応の努力が必要になるのだ。そしてカナンは、姉がどれほどの努力を払ってこれらを身に着けたのか、十分に理解していた。


 議論の場においてはいかに空気・・を支配するかが重要になる。どれほど持論が優れていたとて、聴き手の注意を引くことが出来なければ無意味と化してしまう。その点、大衆の視線を一瞬で掻っ攫ってしまうユディトのは鬼札も良いところだ。


 そして何より、見た目の美しさだけで終わってくれるほど、姉は甘い相手ではない。



貴女・・の難民に対する情熱は、良く理解出来ました。


 けれど、はっきり言って、貴女のげんはただの感情論に過ぎません。そんな不確かなものに未来を委ねるのは、全く非現実的なことです」



 けんもほろろとはまさにこのことだ。カナンの演説を真っ向から斬り捨てたユディトに、大衆は大きく動揺する。噂を聞くまでも無く、二人の容姿を見比べれば、互いに姉妹であることなど簡単に分かる。血縁者に対するには、あまりに厳しい物言いだった。


 だが、カナンはむしろ正しいと思った。血縁関係を重んじて判断力を鈍らせるようでは、それこそ継火手失格である。


「失礼ですが、ユディト様。カナン様の意見を退けるのであれば、それに代わる意見を述べるのが当然ではありませんか?」


 パルミラのニカノルが横槍を加える。だが、ユディトは待ってましたとばかりに「もちろんです」と即答した。



「救征軍だけが選択肢ではありません。我々にはもう一つ、選ぶことの出来る道があります」



 大衆がざわめく。現に、それは衝撃的な発言だった。煌都の使節ですら彼女の言葉に対し身構える。概要を知っている者もいるが、いざ正面対決となると、さすがに緊張せずにはいられなかった。


 最も冷静さを保っていたのは、あるいはカナンであったかもしれない。自分の姉が何の手立ても無いまま挑むような愚者でないことは、彼女が一番良く理解していた。ラヴェンナ到着の前後にユディトが行ってきた工作の数々は、全てこの時のためにあったものなのだ。


 故に、カナンの胸中にはある種の好奇心が湧いていた。自分に対して向けられるユディトの武器が、一体どのようなものであるのか知りたいと思った。


「その道とは?」


 カナンは促した。その余裕ともとれる態度に、ユディトは一瞬、ほんのわずかだが眉をひそめた。だが、それも瞬き一つする間に消えてなくなる。


「説明しましょう」


 居並ぶ全ての人々の視線がユディトに降り注ぐ。彼女はその圧力を一身に受けながら、なおも胸を張り朗々と語り始めた。



「今現在、我々が直面している問題とは一体何なのか。それは難民問題です。


 では、難民とは何か? 難民とは拠り所を持たぬ人々を指します。すなわち指導者乃至ないし統治機構、そして居住すべき土地。このどちらか片方を欠いただけで、人は難民へと堕するのです。


 継火手カナンを見てください。彼女は難民たちの長として旅を続け、ここラヴェンナまで至りました。しかし彼らは未だに難民と呼ばれています。それは、彼らに定住出来る土地が存在しないからです。


 では、仮に彼らに土地があり、代わりに指導者や政治的中枢が無いとしましょう。その場合、やはり彼らは難民となります。何故なら彼らの土地を内外の脅威から守護し、有形無形の線引きを行うのが政府であるからです。


 逆説的に言えば、市民とは、定住可能な土地を持ち、なおかつ統治機構によって治められた存在であると言えるでしょう。彼らの土地は統治機構によって安堵され、守護されます。逆に市民は、種々の義務を遂行することで統治機構に仕えます。この調和が保たれた状態こそ、我々が何気なく口に出し、かつ恩恵を受けている平和という在り様なのです」



 理路整然としたユディトの説明に頷く聴衆の姿も、ちらほらと見受けられた。だが、これはより大きな言説を出すための前振りに過ぎないとカナンは読んでいた。


 何故なら、聴衆を持論に引き込むために一般論を語る手法は、彼女自身がラヴェンナ人や難民に対し使ってきた技術だからだ。


 他者に理解を求めるならば、まずは理解し易い話を持ってくること。家の中に入るためには、まず開きかけた戸口に爪先を差し挟むこと……二人は同じ教師から弁論術を習っていたのだから、戦術が似るのは当然のことである。


(そして、次は……)


 カナンはあえて押し黙ることにした。だが、先程横槍を入れたニカノルが、再びユディトに意見する。


「ユディト様、それは既存の理論に過ぎません。戦争を経験した我々パルミラとしては、最早以前と同じ在り方を続けるのは困難だと認識していますが」


 カナンを援護するためか、ユディトの腹を探るためか、あるいは両方の意図があったのか。だが、どちらにせよ、カナンは「良くない手だ」と感じていた。次にユディトがどう斬り返すか、手に取るように分かった。



「無論、その通りです。私たちは以前と同じ社会形態で暮らしていくことは出来ません。


 平和の形を変えるべき瞬間が、すぐそこまで迫っているからです」



 ユディトは、振り上げた手の平を勢いよく円卓に叩き付けた。さほど大きな音でないにも関わらず、彼女の一挙手一投足が大衆の視線を引き寄せ、場の空気を形成する。一般論は十分に大衆へと染み渡った。後は、それをひっくり返すことによって一気に論戦を掌握する。



「救征軍でもなく、既存の体制とも異なる秩序の形!


 私、エルシャの継火手ユディトは、その新しい世界の形として、循環国家論を提唱します!!」

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